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「幸せも不幸もない」という20代で得た知見
幸せか幸せじゃないか、自分の状態は常にそのどちらかに当てはめられると思っていました。
「幸」という字が並んでいると、たまに「辛」に見えます。
幸せじゃないと感じているときは、理想の幸せを目指そうとします。
追い求めた幸せが幸せでなくなる事例
今のバイトは楽しいけれど時給はあまり良くないことに不満がある。
稼ぐことが大事だから、楽しさはあきらめて時給の良いバイトに変えようか。
と思ってバイトを変えたら、やっぱり前の方がよかった。と思う日は来る。
恋愛なんてしない方がいい。
好きなことに夢中になっていれば寂しくないし、自由だ。誰にも頼らず生きていくんだ。
でも、好きなことを好きな人と共有できたら、もっと楽しいはず。
服もメイクも気を遣ってオシャレして出かけよう。
そして好きな人ができて、いざ付き合ってみると、
遅かれ早かれ、なんでこの人と一緒にいるんだろう、別に一人でもよくない?と思うようになる。
そして、彼のことが嫌になる日が来る。
一日中ピアノを弾く、小説を読む、たまに遠いところまで散歩に行く…。
いろんな趣味があるけれど、何のためにやってるの?と訊かれることがある。
趣味に意味なんてない、ただ好きだからやっているだけ。
でも、趣味なんて時間の無駄だ。そんなことをやって何の意味がある。
もっと役に立つこと、つまりお金になることをした方がいいし、なんならその趣味をお金に換えられる方法を探そう。
と思って、広告収入を得ることを目的として、感情のないインスタ個人ブログ、YouTubeを始めてみても、お金になる日は来ないし、精神が消費されただけだと気付く日が来る。
自由がほしい。
そして何にも縛られたくない、自由を手にした。
どこにも属する必要はなく、場所にも時間にも誰からも制限を受けることない、追い求めた自由な生活。
でも、誰かから与えられる指示や規則がない生活は、自分が個人事業主にならなければいけない。
失敗とたまの成功の繰り返しの波に一人で浮いている状態だ。正直しんどい。
と思って、決まった服装で時間通りに満員電車で会社に行って家に帰ってきて、たまには居酒屋で愚痴を言いながらお酒を飲んで、土日はしょうがなく家族と過ごす。
という逃れたかった生活を羨ましく思うときが来る。
―――
灰色が基本色だからこそ生きることができる
信じている幸福を求めたら、それはいつか不幸になり、不幸だと思って逃れようとしたらそれが実は幸福だった。ということに気付けない。
そんなことに気付けるなら、この世に音楽も本も映画もアートもお笑いも演劇も要らない。
幸せも不幸せもないんだよ、と気付かせてくれる、
思い出させてくれるのが、別になくても命は繋ぐことができる不要不急とされるものなんだと思います。
でも、私は音楽も本も映画もアートもお笑いも演劇もないと生きていけません。
それらが私はどうしようもない人間であると自覚させてくれるからです。
どうしようもない、そのうずうずイジイジした
言葉にするのが難しい状態。
色で表すなら、基本色は灰色で状況によってその他のいろんな色が混ざっていく。
白や黒が基本色にはならない状態にいるからこそ、生きていきたいと思えます。
完全色だったら塗り替えることはできないので、先が見通せます。
だから別に生きていかなくてもいいかなと思ってしまうと思います。
「幸か不幸かという二元論が結局不幸な考えを導いている」
という結論になりそうですが、今まで書いてきた通り、幸と同様に不幸もないので、この結論は矛盾します。
でも、矛盾も理不尽も不合理も、どうしようもない人間をどうしようもなく生かしてくれるものです。
矛盾、理不尽、不合理といった理論だけでなく感情も乱してくる存在が、どうしようもない私が生きるためには必要なんだと思います。
(↑理論か感情という二分論もヤメレ、というツッコミがとんできそうです。)
どうしようもない自分を、基本色が灰色のどうしようもない自分で見つめ、いろんな混沌を受け入れて、まだまだ生きていきたいと思った日でした。
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