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「何も知らないくせに」が生きづらさと向き合うキッカケ。#私なりの生きづらさ論

昔の私は兎に角トゲトゲしていたと思う。
それは人の温もりをわすれた捨て犬みたいな感じ。

当時大人に向けて放った言葉、周りの人に思っていたことは
「誰も私のこと、何も知らないくせに。」
もう捨ててしまったけど、たくさんノートに書き殴った記憶がある。

今思うと、「誰も私のこと、何も知らないくせに。」という誰もは、自分自身も含まれていたんじゃないかなって思ったりもする。

不登校とか引きこもりとかになったけど、死にたくなったりもしたけど、
多分、生きづらさの原因はそれじゃないって気づいていたんだと思う。

そして、本当の生きづらさの原因は私にもわからなかったんだと思う。

何も分からない自分を「空っぽ」だと感じ、「空っぽ」な自分の存在が意味が無いように感じて、何もかも嫌になったんだと思う。

ずっと「空っぽ」になった自分自身を探したかった。

高校生になって、不登校支援とか生きづらさについての活動を始めた。
優しく見守ってくれる人も多かったけど、

「こんなに恵まれてるのに生きづらいって言うのはおかしい」
「不登校とか引きこもりなんてよくあることじゃん」
「もっと生きづらい人間だっている」

厳しい意見を投げてくれる人も多かった。

私はずっと
「私のこと、何も知らないくせに。」
ってニコニコしながら思っていた。

いや、もっと酷いことも思ってた。
「表に出た情報だけを、私の全てと勘違いして馬鹿みたい。」


長い年月、たくさんの労力を使って、活動を続けてきた。でも、本当の私の生きづらさの原因はわからなかった。

それがある意味、もうひとつの生きづらさでもあった。
なにか「これ」という生きづらさの肩書きが無ければ、生きづらさを認めてくれない。

ただでさえ、生きづらさを比較しようとする人も居るのに、肩書きという形がなければ、生きづらさはあってないようなものではないか。


そこに気づいて、ようやく私は自分の生きづらさに逃げずに向き合わなければならないと思い始めた。

私の生きづらさを、れっきとした「生きづらさ」だと認めるため色んな本や記事を読んだ。
そして「生きづらさ」とは何か、仮説を立て崩しての繰り返しをした。


でも、ふと、「形がなければ『生きづらい』と言っても認められない」とするのもおかしな話だと思った。

だって、「生きづらい!」って形が無くても思っている人がいるのだもの。(現に私が)
その気持ちを無視するのは、図れない感情を自分の定規で図り区別することになる。


そもそも「生きづらい」と言えなくて、「死にたい」とようやく言えたタイミングで救済措置を取るのも手遅れだと思うし。

また「生きづらさ」のモヤモヤを当たり前だと感じたあまり、「生きづらい」にも「死にたい」にも気づかないことだって問題だと思うし。


だから、
正直「生きづらい」ってハードな言葉だから、そのハードルを下げると言うのも難しいかもしれないけど、

私はもっとシンプルに自分の「生きづらさ」を発見し、伝えられる人を増やしたいなと思った。
私だって、そういう人間になりたい。

最後に

ここまで「生きづらさ」について、色々書いておきながら、今現在も私の生きづらさの原因は分からない。

でも、
「形がなければ『生きづらい』と言っても認められない」
とこの社会で思った私だからこそ、一緒にできることがあるんじゃないかなって、やんわりと思っている。

少しずつ、「生きづらさ」を発見して伝えられるお手伝いができる何かを作っていきたい。
(今頑張って作ってる最中です!笑)

最近、焦りも苦しみも過去の古傷もいっぱいジワジワときて、「もう〜いや〜!!!」ってなったりするけど。

「ゆっくり伸び伸び頑張ってね」と応援してくれる人がいっぱいいるから、頑張れる。

私はとても幸せ者だと思う。

それでは、おやすみなさい。

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