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香港永久居民の日本人。X(Twitter)で取りこぼしを書こうと思います。

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マガジン

  • 上海1989

    オールド上海オタクを募らせていたら、雑誌の懸賞に当選して、初上海旅行、 勢いついて翌年、上海に留学すると、天安門事件に巻き込まれてしまいました。

  • ボランティア@香港

    香港で参加しているボランティア活動について

  • 香港の禁区

    香港の禁区、沙頭角に行きました。

最近の記事

1989年夏、ラストエンペラー追跡旅行記

前回の続き 丹東から瀋陽へ 国境の街、丹東から北朝鮮を眺め、達成感を得ましたが、 この旅行の目的は一応、 映画ラストエンペラー・追跡旅行です。 丹東から瀋陽は鉄道で行きました。 瀋陽は旧奉天。満州国の面影を探す旅で、いきなり駅舎を見て、 おっ‼︎ 東京駅‼︎ と感じました。 事情も良く分かっていないまま、丹東から同じ列車で来た、 瀋陽在住中国人男性2人組にホテルを紹介して頂きました。 凄く高い値段ではないですが、ビジネスホテルという雰囲気。 1989年当時の印象で「大

    • 1989年夏のスロウ・ボート

      前回の続き 1989年8月。静かな上海 1989年の上海留学、 天安門事件に巻き込まれて、 6月半ばに一旦帰国ましたが、 8月半ばに再び上海に戻りました。 新しい学校は9月からですが、 授業開始前の半月、旅行に行きました。 「和平飯店が今なら一泊50ドルで泊まれるよ! 一緒に泊まらない?」 6月までの学校のルームメイトからありがたいニュースを聞き、 成田発の同じ便で上海に入りました。 観光客が消えたらしく、破格の値段で泊まる事が出来ました。 憧れの和平飯店はとても静か

      • 1954年から眺めた2024年。そして70年後?

        最近YouTubeのオススメに登場した動画 東海道新幹線開通の1964年から遡って10年前の1954年、 今から何と70年前です。 東京から大阪まで運行の「特急つばめ」のドキュメンタリー短編映画。 新幹線線開通以前の特急列車は、想像もつきませんでしたが、 当時は1日がかりの大移動でした。 電化されていたのは、名古屋まで。 名古屋から先の非電化区間は、蒸気機関車の牽引。 そして、印象的なのは、乗客の品の良さ。 皆さん正装で乗車。 食堂車に花、キャビンアテンダントの様な、颯爽

        • キラキラしていない深圳ですが…

          Amazonプライム・ビデオで公開のドキュメンタリー映画 ずっと前から公開中ですが、最近やっと見ました。 日本語公式サイトもありました。 世界で一番ゴッホを描いた趙小勇氏 映画は10年位前の、深圳大芬油絵村が舞台。 当時既に20年以上、ゴッホの複製画を描き続けた趙小勇氏、 オランダの画商の招待を受けて、欧州旅行へ。 初めて見た本物のゴッホと、自分の複製画が売られている 現場の現実を知った後の葛藤、 その後の決断と変化を追いかけたドキュメンタリー映画作品。 趙小勇氏は湖

        1989年夏、ラストエンペラー追跡旅行記

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        記事

          夏至の合同運動会

          先月の週末、日本人幼稚園と、難民家庭の子供達との 合同運動会があり、お手伝いに行きました。 定期的にこちらのボランティア活動に参加しております。 5月のボランティア参加時に 「来月運動会を行うので、参加希望の場合は 支援団体に連絡してください」と伝えてとの連絡。 運動会は英語で”Sports Day” だそうです。 この日の物資支給訪問先は、アフリカ某国出身家庭。 目をキラキラさせながら、参加したい!! の 10歳位の女の子。 参加してくれると良いなぁ...。 そして運動

          夏至の合同運動会

          スペースに出演しました

          先週末、石井大智@Daichi_Ishii さんの X (Twitter)スペースに音声出演しました。 録音を聴くことができます。 内容については、noteで書いております、 1989年上海日記についての 色々です。 途中から、同時期に北京に留学された けろっと@kerotto さんもお話に参加されました。 当時の北京の生々しい状況を、今回初めて知ることができました。 六四体験をネットで語る事について、 周囲の方々からご心配をおかけしましたが、 「中国の事よりも、在留

          スペースに出演しました

          何が起こったのかを知るために。1989年6月、上海

          前回の続き 街で貼られる数々のニュース 交通が回復して来たので、街歩きが出来る様になりました。 バスに乗って驚いたのは、車内のあちこちに貼られた、 速報版のニュースを埋める壁新聞。 「BBCから聞いた速報」「VOAから聞いた速報」等。 中国政府の報道よりも、海外のニュースを信じる人達の方が多い感じ。 当時のNHKニュース番組中に、 中国政府と、海外媒体との報道合戦の解説があります。 国際ラジオのプロパガンダ競争 上記の通り、当時の中国の人達は、政府の放送よりも、 西

          何が起こったのかを知るために。1989年6月、上海

          突然終っても…

          今朝 (6/12) FBを開くと、友人の誕生日の通知。 少し躊躇しながら、お祝いのメッセージ。 躊躇をした理由は、既に現世にいない友人のため。 2年前に突然の原因不明の病で入院して 3ヶ月の闘病生活の末に惜しくも他界、 享年60歳過ぎで突然終わった人生でした。 博識な旅行ライターの方で、FBの日記は 無料で読ませていただくのが、申し訳なく思った程。 しかし、コロナ禍の最中の発病。そして入院と闘病生活。 パンデミックが明けたら、 自由に旅行をしたかったのでは?と 悔しい思いが

          突然終っても…

          兌換券が無いので両替が出来ません。航空券が買えません。1989年6月、上海

          前回の続き とりあえず生存報告 欧米先進諸国の学生達が一瞬で去り、 学校に取り残された留学生は、 日本人と北朝鮮人のみ…。 他の学校も日本人以外で残ったのは、 東側諸国や社会主義体制の国及び、独裁体制の国々…。 この状態で授業が未だ行われていたのか、 正直覚えていないです。 とりあえずすべき事は? 留学生寮の事務室の受付に行き、 日本への国際電話を申込み、 順々に電話連絡。 この時の雰囲気は流石に、 慌ただしかったと記憶しています。 家族や日本の所属先の学校、 留学斡旋

          兌換券が無いので両替が出来ません。航空券が買えません。1989年6月、上海

          2時間後にここを出て空港に行く。君も香港に行かないか?1989年6月、上海

          前回の続き 重い週明け 週末遊びすぎた後の、静かな月曜日。 街が止まったかの如く、とても静か。 そして空気が重い。 学校に行き、初めて知った北京のニュース。 何を言っているのか、全く理解出来ず…。 酷すぎて信じられない事ばかり。 自分の常識から離れすぎて、 理解するまで時間がかかりましたが、 この時から、周囲が激しく変わって行きました。 翌日午後、思い切って学校の外に出てみましたが、 バスが道幅を塞ぎ、バリケードの様に積み重なっていました。 歩けないので、この日は学

          2時間後にここを出て空港に行く。君も香港に行かないか?1989年6月、上海

          1989年6月3日土曜日。上海錦江飯店

          前回の続き 憧れの錦江飯店 留学先の学校は、上海の北東、 戦前は「日本人租界」と呼ばれた、 日本人が多く住んでいた虹口地域の近くの、 趣き深い地域で、気に入っていました。 留学中の外出先範囲は、 学校からの路線バスで直接行ける、 外灘から和平飯店や友誼商店周辺までが多く、 更に先、上海の西、路線バスを乗り継いで行く 旧フランス租界に在り、 数多くの国際的要人が滞在歴を誇る、 重鎮的な存在の錦江飯店は、 畏れ多さを感じました。 当時は、近くに高層ビルの系列ホテル ジンジ

          1989年6月3日土曜日。上海錦江飯店

          1989年5月上海。歴史に巻き込まれた?

          前回の続き 外の世界が騒がしい? 上海に来て暫く経った4月某日、 上級のクラスの大学生の男性から、 「そういえば、胡耀邦が亡くなりましたね。」と聞きました。 恥ずかしながら、当時は何もわかっていなかったですが、 このことが、後々大きなフラグになりました。 中国語が分からない状態で留学し、インターネットの無かった80年代、 テレビやラジオも無かったので、外のニュースは、人つての伝承から。 五四運動の5月4日にデモがあったらしいという話をぼんやりと聞き 当時は深い意味は考え

          1989年5月上海。歴史に巻き込まれた?

          香港の偉大なスターの墓荒らし犯逮捕ニュースが中華圏を駆け抜けたので、ググってみた

          今日(2024/05/19)の午後、私のスマホに通知が飛び込んだニュース 1993年に逝去した香港のバンド Beyondのリーダー、黄家駒のお墓を荒らし、 自らその様子の動画を発表した二人組が逮捕されました。 香港の他、中華圏各地の媒体で報道されております。 私自身大好きなバンドという事もあり、 何度も家駒お墓参りに行きました。 憤りながらも、今回の事件は 中華圏各地でどの様な反応なのかを調べてみました。 香港各媒体 動画あり。音声注意↓ 四川省からお墓参りに来たファ

          香港の偉大なスターの墓荒らし犯逮捕ニュースが中華圏を駆け抜けたので、ググってみた

          中国語が段々わかって来た!! 外出外出旅行旅行!!1989年5月上海

          前回の続き 2種類の通貨。外匯券と人民元 90年代前半までの中国は2種類の通貨がありました。 一般の中国人民が使う人民元(今もあります)と、 日本円や米ドル等の外貨を両替時に受け取る、 外匯券/兌換券と呼ばれる外国人用の通貨。 人民元から直接、外貨へ直接の両替は出来ません。 中国の人達が輸入品や高級品(主にお酒やタバコなど)を購入する時、 外国人用のデパート 「友誼商店」で購入の必要があるため、 また外国人が一般のお店で、普通の値段で買物をしたいため、 双方の利害が一致

          中国語が段々わかって来た!! 外出外出旅行旅行!!1989年5月上海

          独学だけでいきなり留学、1989年4月上海

          前回の続き 帰国後、とりあえずNHK語学講座 初めての中国招待旅行から帰国後、上海熱が更に酷くなり 一定期間住んでみたい→留学への欲望が沸々を沸き 一年後に留学を目標にして準備を始めました。 インターネットが未だ登場する前の80年代終盤、 中国語の勉強について、殆ど情報が無い状態でしたが、 書店に並ぶNHKの中国語講座テキストを購入し、 1988年4月から視聴開始。 発音の基礎から始めました。 NHKの語学講座は、一番安く語学の勉強を始める方法です。 テキスト代は月数百円

          独学だけでいきなり留学、1989年4月上海

          1988年1月、上海招待旅行

          初めての海外は1987年、香港団体旅行 初めての海外旅行は1987年8月、香港旅行。 4泊5日の一般的な団体旅行でした。 この頃は全く英語も中国語も分からず、 香港で話す中国語が広東語だと言うことすら、理解せず。 ガイドさんの「あと10年で香港は中国に返還されますが それまでに一度は、香港に来てくださいね」の言葉が印象的でしたが、 まさかその10年以内に、香港に住むとは思いもしなかったです。 2回目の海外旅行は雑誌の招待旅行 2回目の海外旅行は、1988年1月、上海・北

          1988年1月、上海招待旅行