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1989年5月上海。歴史に巻き込まれた?

前回の続き


外の世界が騒がしい?

上海に来て暫く経った4月某日、
上級のクラスの大学生の男性から、
「そういえば、胡耀邦が亡くなりましたね。」と聞きました。
恥ずかしながら、当時は何もわかっていなかったですが、
このことが、後々大きなフラグになりました。


中国語が分からない状態で留学し、インターネットの無かった80年代、
テレビやラジオも無かったので、外のニュースは、人つての伝承から。
五四運動の5月4日にデモがあったらしいという話をぼんやりと聞き
当時は深い意味は考える事もなかったのですが、
徐々に周囲の騒がしさを感じる様になりました。

人民広場でデモが行われたらしい
(当時の人民広場は、今の様な公園ではなく、天安門の様な広場でした)
外灘でデモがあったらしい」等々という話が飛び交い、
デモを見に行った留学生たちの、武勇伝も聞こえて来ました。
武勇伝を語る人に、軽率だと批判する人もいました。
そして、胡耀邦の死を教えてくれた大学生は、
現場を見たいと、北京に行ってしまいました。

学校の先生達は、中国語初級の私たちに
丁寧に、状況を説明してくれました。
今の中国では無理かと思いますが、当時の先生達は、
政府への不満を外国人留学生達に、
伝える事ができました。
当時のインテリ層的な気概なのか、
北京に対抗した、上海という土地柄なのかは分かりませんが、
若い先生、年配の先生もそれぞれ意見をし、
米国やオーストラリア出身の学生達が、熱心に聞いていました。
おじいちゃん先生も李鵬の事を批判していたな…。
「遊行」「罢课」「罢工」「毛病」「下台」などのワードを覚えました。

イタリア人女子高生の、お誕生日会

留学生達の語学クラスは原則、高校卒業以上人たちが学んでいましたが、
私のクラスに、イタリア出身のオリビアという女の子がいました。
未だ10代半ばの、日本の年齢なら女子高生、
南通に赴任した彼女の父親と一緒に中国に来て、
週末は南通に行き、家族で過ごす生活。
留学生の語学クラスの授業を受けると、
高校の単位と代替されたそうです。
両親と離れた生活は寂しいせいか、
周囲の学生達に甘え上手で可愛く、
マドンナが大好きな女の子でした。

オリビアのルームメイトは、上級のクラスの日本人大学生。
中国語の他、英語も堪能な女性ですが、
私のクラスメートの大学生達と同じ学校出身のため、
日本人学生達と仲が良く、みんなから、
妹の様に可愛がられていました。

「オリビアの誕生日パーティをやるんだけど、招待するよ」
同じクラスの大学生達に誘われました。

そして当日の夜、誕生日パーティがまったりと行われる中、
外から大勢の叫び声が聞こえて来ました。
中国人学生寮で、デモを行っている様子。

「見に行こうよ!!」と男子学生たち。
興味半分で、身近に起こったデモを見に行き、
その場の熱狂に圧倒されている中、
学生達は、大声を上げながら窓から外へ色々な物を
投げ合っていました。
その時、足元に、ガラスの瓶が割れる音が聞こえました。
実は、野次馬見物の、私たち日本人留学生達への怒り、
投げられた瓶でした。
周囲が暗い中、ガラス瓶が飛んでくるのは、流石に怖い。

「外国語大学なのに、日本人に瓶を投げるなんてショック」と
悲鳴と怒りが聞こえましたが、
学生達の真剣にデモに対して、興味半分で見に行った
自分の軽さが恥ずかしく感じました。
すっかり白けてしまい、折角の誕生日パーティは、お開きに…。

インターナショナルが聞こえてくる

上海の学生運動は北京に比べて、激しくない印象でしたが、
学校の近くの通りでも、デモ行進を見る様になり、
スローガンの他、インターナショナルの歌声が聞こえて来ました。
当時の僅かな中国語力だと、スローガンよりも、
既に知っている曲の方が、記憶に残った訳です。

とはいえ、上海の学生達、自由や民主よりも、
それぞれの学校の幕やプラカードを持ちながらの行進は、
学園祭?の印象も正直否めなかったです。

5月のある週末、ルームメイトの友人達と外出中、デモに遭遇。
「見に行っちゃう?」「行っちゃえ!!」と恐る恐る、デモの中へ。
暫く見て、「凄かったね。そろそろ帰ろう」と学校に戻ろうとしたら、
交通が遮断されて、バスもタクシーも無く、
あちこち迂回し、道を探しながら、学校に戻りました。
これに懲りて、デモに遭遇すると、後が大変と、近寄らなくなりました。

5月20日過ぎ、北京市で戒厳令が出たと言う話が伝わって来た頃、
北京の現場を見に行った学生が、戻って来ました。
言葉は少なめでしたが、色々と圧倒されてしまった様です。

日本からの手紙

インターネットが未だ無かった1980年代末、
海外からのやり取りは、国際郵便が主流でした。
当時の留学生達は恐らく、
週に何通もの手紙をやり取りしていたと思います。
手紙を受け取る時は、みんな嬉しそう。
私宛の手紙は、中国の様子を案じる便りも幾つかありましたが、
日常生活は大丈夫と、返していたと思います。

5月後半のある日、東京からフリーライターの友人からの手紙
大変な時に中国に行きましたね。羨ましいです。歴史の変わり目になるかもしれません。しっかりと見て来てください。
確かその様な内容だったと思いますが、
改めて、自分がいる立ち位置を考えました。
そして、日本の実家に電話をしました。

当時は個人の携帯電話はおろか、日本へのダイヤル直通電話すらなく、
学校のオペレーターに申し込みますが、中国語の壁があり、
日本に電話をするには、
和平飯店に設置の「ジャパンダイレクト」電話を使い、
オペレーターを通して電話をするのが、楽な方法でした。
日本語で出来ますから。

↑今もあります。ビックリ!!

これから何が起こるか分からないから、
新聞を取っておいて。今日から全部。帰国したら読むから

今考えると、結構怖いことを親に言ったものですが、
自分の中の勘が働いたと感じます。
高校の政治経済の授業で教わった
一つのニュースを追うには継続して新聞を読み、流れを見る」を
実践した訳です。

留学延長と転校申請

最初の計画では、上海留学は3か月の短期のつもりでした。
上海留学を始めるまでは、異国での生活への
不安がありましたが、
いざ始めてみたら、初めての海外生活は不便ながらも面白く、
闇両替を利用すると、結構生活費が安くなることが分かりました。
更に中国各地を旅行をする留学生達の話に刺激を受け、
自分も中国の事を色々知りたくなり、
4月の半ば過ぎから、延長について考える様になりました。

留学カウンセラーの上海人男性に伺うと、
中国人は、先の事を考えません。
今は春です。夏以降の事は直前に言った方が良いです
」と
実直なアドバイス。

他の留学生達に相談をすると
「この学校は、私費留学生が多く、全てが高くつく。
延長を申請しても、日本の業者を通して手続きをしろと言われるだけ」と
言われました。
学校は外貨で入る手数料が欲しい訳です。
日本の業者に払うほどのお金はないなと思っていた矢先、
「別の学校で、直接申し込んだら、手数料は不要。
友達の学校を紹介するよ。」
これは良いアイデア!!

実は日本人留学生が多いこの学校に
些か窮屈さを感じる様になって来た頃。
寮のルームメイトは、私よりも年上の日本人女性2人の3人部屋。
お姉さん達2人は頼りになりますが、正直気も使います。
授業も日本人が多いクラスで、留学している雰囲気が低い。
これは漢字が予め分かる日本人と、欧米の学生との進度の違いもあります。
欧米出身の学生向けに、漢字の仕組みから説明の授業は、正直退屈。
一方、日本人大学生の私語が多い授業も集中出来ず。
少し前までは、全く中国語が聞き取れなかったですが、
少しでも中国語が分かる様になると、
不満が蓄積する様になった自分に、気がつきました。

友人の紹介で行った学校は、理工系の大学で、
本科の学生達は、アフリカや中東などの出身者が多く
語学班の学生は欧州、特にドイツから学生が多いとの事で、
日本人留学生は10人以下で、
外国人のルームメイトになる確率が高そう。
この学校は良いかもと、即座に、留学生事務所に行き、
入学許可証を貰いました。
入学許可証持って東京の中国大使館に行けば、
留学ビザの申請が出来ます。

1989年5月下旬。
当時は歴史的事件が数日後に起こるとは思いもせず、
一時帰国予定日までの1か月間、引き続き、
上海で普通の生活が出来ると、安穏と考えていました。

参考資料




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