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何が起こったのかを知るために。1989年6月、上海

前回の続き


街で貼られる数々のニュース

交通が回復して来たので、街歩きが出来る様になりました。
バスに乗って驚いたのは、車内のあちこちに貼られた、
速報版のニュースを埋める壁新聞。
「BBCから聞いた速報」「VOAから聞いた速報」等。
中国政府の報道よりも、海外のニュースを信じる人達の方が多い感じ。

当時のNHKニュース番組中に、
中国政府と、海外媒体との報道合戦の解説があります。


1989年6月6日NHKニュース映像
1989年6月6日NHKニュース映像
1989年6月6日NHKニュース映像

国際ラジオのプロパガンダ競争

上記の通り、当時の中国の人達は、政府の放送よりも、
西側諸国の海外向け放送を信頼し、情報収集を行なっていました。
インターネットの登場前、しかも冷戦中の1980年代は、
今とはかなり違う世界観でした。

BBCよりもVOA (Voice Of America) を聞く人が多い印象でした。
そんなに英語が聴ける人が多いのかと思いきや、中国語放送。
中国でVOA=米国国営放送を熱心に聴かれたのも、時代を感じます。

インターネット登場前は、短波ラジオが、
海外からの生情報を知る為の情報源でした。

当時のVOA北京駐在記者によるインタビューです。 (中国語字幕)


↑天安門事件時の、海外メディアの報道について

↑VOA中国語サイト

1989年秋、ベルリンの壁崩壊のニュースを
私は上海の留学生寮の自室で
日本から持参した短波ラジオで知りました。
当時の東側諸国の人々は、西側からの情報源を頼りにしていました。

冷戦後、インターネットが開放され、
あっという間に世界中に普及し、
手軽に世界中のニュースを入手する事が可能になりました。
反面、ご存知の方が多いと思いますが、中国は現在
『金盾』と呼ばれるインターネットの壁で
海外からの情報を遮断し、
又、英語が普及している香港に対して、
海外からの反中国勢力に対して神経質になっております。

王さんの一言

学校が落ち着ちついた頃、補導をお願いしていた、
王さんに会う事が出来ました。
日本語が流暢な彼女に、色々な事を尋ねたと思います。
そして王さんが一言、
中国がこんな事になって、ごめんなさい
驚いた私達。
そして「誰のせいでもない」と、お互いを気遣った私達。
中国の人達が、当時は外からニュースを見て、考えて、
お互いに意見を言う事が出来たのだと、
今だから、とても実感しています。

洪水の様な自転車の音の中で

帰国数日前、
日本へのお土産を買いに、一人で街に出ていました。
途中でスコールに遭遇し、雨宿りの後見上げると、
一面を埋める程の洪水の様な自転車。
そして鳴り止まない自転車の呼び鈴の音、
音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音
音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音
今更ながら、中国にいたと感じた瞬間でした。

あの場所は単なる中国の日常風景だったのか?
或いは特別な何かの抗議行動だったのか?
今でもよく覚えています。

”听说”から抜けるために

1989年4月から6月まで、上海に滞在し、
中国語初心者だった自分が、思いがけず、
歴史の1ページに立ち会う事になりました。

しかし初めての海外生活で遭遇した有事に対して、
情報収集力が、無さすぎる自分に呆然としました。
それは語学力の他、
信頼が出来、自分で判断が可能な情報源を持たない心細さ。
人伝ての話や流言に振り回され、
余りにも情け無い自分に対峙しました。
特に短波ラジオすら持たずに行く海外は、
流石にヤバいと実感。

留学前は都内の広告会社で働いて、
他の人達に比べて、情報は溢れる程入手出来ましたが、
実際は、量的に多かっただけだったかもしれません。
そんな自分が海外で遭遇した有事に、
無力さを実感しました。
与えられる情報に流されるのではなく、
自らで掴んでいくものだと、
自分の中が変わりました。

6月半ば過ぎに帰国後、
最初に行ったのは、
5月下旬分から集めて貰った新聞の整理。
実家で購読していたのは読売新聞一紙のみでしたが、
一ヶ月分の報道数はかなりの量でした。
そして、とりあえずのアルバイト、
それから次に行く学校のビザ取得手続きや、
前回よりも長期で留学に行く為の、
準備の日々を過ごしました。

9月に次の学校が始まりましたが、
旅行に行く為に、
8月半ばに上海に出発しました。

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