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1989年夏のスロウ・ボート

前回の続き



1989年8月。静かな上海


1989年の上海留学、
天安門事件に巻き込まれて、
6月半ばに一旦帰国ましたが、
8月半ばに再び上海に戻りました。
新しい学校は9月からですが、
授業開始前の半月、旅行に行きました。

「和平飯店が今なら一泊50ドルで泊まれるよ!
一緒に泊まらない?」
6月までの学校のルームメイトからありがたいニュースを聞き、
成田発の同じ便で上海に入りました。
観光客が消えたらしく、破格の値段で泊まる事が出来ました。

憧れの和平飯店はとても静かで、
ホテルの窓から南京路から交差する外灘沿いの風景を
うっとりと眺めていました。

その後、浦江飯店の屋根裏部屋の様なシングルに移動して
数泊しつつ、旅行の準備。
オールドホテルのハシゴは何とも楽しいですが、
その間に新しい学校に行き、学生証をゲット!!
これで鉄道は外国人料金でなく
中国人民料金で乗ることが出来るはずです。
兌換券での支払いですが…。

行き先は大連

当時の上海から大連へは船が出ていました。
何と日本からの鑑真号と同じ2泊3日!!
高速鉄道などの鉄道網が発展していなかった当時、
鉄道よりもチケット入手が容易な上
上海から大連などは、
直接目的地に行ける船便の方が便利でした。

上海⇔大連の他
上海⇔青島など
旅行者にも使いやすい路線を利用した事があります。


上海→大連


1989年8月後半某日夜発の
上海→大連行きの船に乗りました。
到着は3日目の朝。
3日かけて移動しても、中国のほんの一部、
広大な国だと感じました。

大連に到着後に泊まったホテルは、大連賓館
予算オーバーですが、安宿が見つからず1泊、
翌日安めのホテルに移動しました。

大連賓館は「旧ヤマトホテル」
戦前の南満州鉄道(満鉄)によって建てられた
歴史的なオールドホテル。
1泊でしたが、良い経験でした。

翌日移動したホテルは、服務員の女の子に
「日本語を教えて」と言われ、
中国の中学(中学+高校)で
日本語を学ぶ人達がいる事を知りました。

1989年夏の大連の印象は、落ち着いた雰囲気。
滞在中は雨が多かった事でもありましたが...。
上海の租界とは、違う趣きで、
日本人が多く住んでいたと言う面影を
感じる事が出来ました。
戦前の日本製の路面電車に乗る事が出来ました。


大連は高めのホテルだった事もあり、次の町へ急いで移動。

大連からバスに乗り、国境の街へ

大連からバスで半日乗り、丹東へ。
ここは北朝鮮が見える国境の町。
鉄道で中国から北朝鮮に入る時の国境の町です。

大連→丹東


中国語の他、ハングル語表記があちこちで見られ
鴨緑江と呼ばれる河川の向こうは北朝鮮。
北朝鮮とを繋ぐ橋は
朝鮮戦争で米軍の攻撃で壊され、一部分が残る橋と
現在も使われている橋が並んでいます。
この壊された橋が見たくて、丹東に行きました。

対岸側の北朝鮮近くを見る事が出来る
遊覧船に乗りました。
乗客の殆どは韓国人っぽかったです。
当時は未だ中国と韓国の国交が無かったですが、
日本経由でここまで来たのでしょうか?
韓国人のおじさんたちが、朝鮮族のガイドさんに
しきりにタバコを勧めながら、話が盛り上がっている様子。
東アジアの風景…。

1989年夏の丹東の印象は、結構活気がある雰囲気でした。

丹東で泊まったホテルのテレビ、
中国の番組の他、砂嵐が混じる謎のチャンネル?
言葉も中国語ではなさそう…。
暫く考えて出てきた答えは
北朝鮮のテレビチャンネル!!
退屈そうな革命ドラマ風番組でしたが、
目が釘付けになりました。

ガイドブックに新義州市(北朝鮮)側が見える
見晴らしが良い小山があり登って眺めていると、
男性2人組に話しかけられました。
瀋陽から来た旅行者との事で、
私も翌日瀋陽行きの同じ列車に乗ると分かり、意気投合。

次の目的地は瀋陽。
船→バスと移動後、初めての鉄道での移動です。


大連→丹東→瀋陽

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