1989年夏、ラストエンペラー追跡旅行記
前回の続き
丹東から瀋陽へ
国境の街、丹東から北朝鮮を眺め、達成感を得ましたが、
この旅行の目的は一応、
映画ラストエンペラー・追跡旅行です。
丹東から瀋陽は鉄道で行きました。
瀋陽は旧奉天。満州国の面影を探す旅で、いきなり駅舎を見て、
おっ‼︎ 東京駅‼︎ と感じました。
事情も良く分かっていないまま、丹東から同じ列車で来た、
瀋陽在住中国人男性2人組にホテルを紹介して頂きました。
凄く高い値段ではないですが、ビジネスホテルという雰囲気。
1989年当時の印象で「大都会」。
当時の自分の知識の無さと「余り見るところが無い」と言われましたが、
観光地は瀋陽故宮に行きました。
北京の故宮とは違う趣きでした。
2軒目の旧ヤマトホテル
瀋陽から鉄道で長春へ。
指定席とはいえ硬座で4時間、風邪の症状が有り、
ローカル薬局で購入した風邪薬を服用後、長春行きに乗車。
硬座の椅子の硬さを感じる事なく、
ガッツリ寝てしまいました。💦
風景を見るのを忘れていました…。
長春のホテルは駅近くの春誼賓館。
旧ヤマトホテルですが、私が泊まった時は改装前のせいか
大連の半額位で泊まれました。
大連では他になく仕方なく宿泊しましたが
地球の歩き方に長春春誼賓館は安く泊まれるとあり
最初から泊まるつもりでした。
部屋は古びた感じで、備え付けのテレビが白黒でしたが
それも趣を感じ、
建物の中に入るだけでも一見の価値があると感じました。
駅から近いホテルですが、朝起きて窓の外を見ると、蒸気機関車!!
生まれて初めて見ました。ビックリ!!
1989年、日本は既に平成に入りましたが
中国吉林省では、蒸気機関車が現役でした。
目の前の歴史に混乱した街
1989年当時の長春の印象は、「公園の様に緑多くゆったりとした街」。
そして満州国首都、新京と呼ばれていた街。
実際に街を歩いていると遭遇する、
中国とも日本とも西洋とも形容し難い
歴史の重みを感じる建物に、目の前に遭遇し
言葉を失って戸惑ってしまいました。
そして公園の様に緑が多い街並み
→皇居の周りを散策している様な錯覚を感じました。
日本のお城のような建物や
国会議事堂に似た建物もあります。
自分の学生時の得意科目は社会科・歴史でしたが、
教科書では習わなかった歴史的建築に
混乱してしまいました。
今では、ネットで色々な情報が入手できますが、
知らないで現地に行って知る衝撃も、
今となっては良かったと感じています。
久しぶりに遭遇した日本人留学生たち
南湖公園の近くのホテルで一息ついていたら
日本語の会話が聞こえてきました。
何と長春に留学中の日本人学生の皆さん!!
上海を出て10日以上振りに日本人に出会いまして、
久しぶりに日本語で会話をする事が出来ました。
「大連賓館と春誼賓館に宿泊って、ヤマトホテルマニアですか?」
と突っ込まれましたが、大連賓館は他に無かったので仕方なくです。
「この先は何処に行くのですか?」と聞かれて
「哈爾濱まで行ってから上海に戻ります」と答えると
「満州里までは行かないのですか?」と
そこまでは行きません…。
私からは「何故、長春に留学されているのですか?」と伺うと
「マンダリン(北京語)としての発音の良さ」
「満州の歴史への興味」の他、
「ご飯が美味しいから」という回答を頂きました。
当時から、中国東北地方のお米は日本に近い品種と言われています。
上海まで約2400km、哈爾濱
中国東北旅行、最後の目的地は哈爾濱。
長春から列車で約3時間。
前回と違い風邪薬は服用しなかったので
硬座でギリギリ我慢出来る距離だったかも…。
1989年夏の哈爾濱の印象は、「美しい街」。
上海の外灘などとは違う、ロシア風に揃えられた美しさ。
ロシアは今だに行った事がありませんが…。
今まで行った漢民族の街とは違う趣きでした。
と、街の美しさに見惚れている反面、
そろそろ旅を終わらせたいと、焦り始めていました。
しかし、上海への火車票(チケット)を買う事が中々出来ません。
実はこの頃、火車票が今までの倍の値段に値上げをし、
値上げ前は買うのが難しいと知りました。
六四天安門事件の後、人民の移動を制限させるための政策だと
言われています。
上海への火車票を探し求めながら
美しい哈爾濱の街を彷徨う日々が続きました。
結局購入出来たのは値上げ後。しかも軟臥。
値段を見てショックでしたが、出発及び到着を見ると
2泊3日!!
哈爾濱を出た翌々日の朝に上海到着です。
(今だと普通の列車で24時間、高速鉄道で12時間で移動できるそうです)
半月余りの中国東北旅行を終えて上海に戻ると
既に9月に入り、
他の留学生たちも徐々に入って来ました。
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