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大学生自転車日本一周旅を振り返って①:旅とは

 少し時間が空いてしまったが、前回の「大学生自転車日本一周旅(北海道・沖縄除く)の終わりに」の最後に宣言していた通り、この旅を通して感じたことや考えていたことを振り返っていこうと思う。まず第一回目の今回は、自分の「旅」に対する考えについて書いていく。

 まず、「旅」と「旅行」は違うと思う。英語にしたら「trip」「travel」「journey」などが思い浮かぶ。研究社の「ルミナス英和辞典第2版」でそれぞれの意味を調べてみる。すると、この三つとも「旅行、旅」と説明がされている。具体的な違いは、「trip」は比較的短い観光・出張の旅行、「travel」は各地を巡り歩く旅行、「journey」は目的地までの比較的長い旅行、だそう。どれも似たような意味を包含しているように感じる。日本語においても、旅と旅行は特に使い分けがされているようには思えない。

ただ、個人的には旅と旅行では思い浮かべるイメージが変わる。旅行は何か目的物(景色や食事など)があってそれを求めて行くのに対し、旅は目的物は無く道中で景色や食事を意図に関わらず味わうというイメージ。言い換えると、旅行においては目的地への到着が重要なのに対し、旅では終了するまでの道中に価値があるという点が違っている。もちろん純度100%で違っているわけでは無く、ブレンドされていることの方が多いとは思うが、比重はこのイメージのように傾いているように思う。

どちらが良くてどちらはクソ、というのは無いが個人的には旅行よりも旅のほうが心がそそられる。道草を食うことが好きなんだろう。目的に直線的に進むことがあまり好きではない。例えばある場所の海とそこに沈む夕日が見たいからと言って、夏、快晴の夕方のベストタイミングに合わせて車や電車などで向かう。到着してその景色を眺め、写真を撮る。夕日が沈んだらまた来た道を同じように帰っていく。これはすごく直線的に目的物を味わっている。だけど、ベストタイミングではない時間のその海の景色、夏以外の季節にその海や夕日が見せる顔、道中の雰囲気や空気のにおい、食事や道の状態。他にも様々な情報が見ることも味わうこともないまま終わってしまう。仮に、その人にとって見たいと思っていた景色よりいいものがあるかもしれないのに。もちろん、時間とお金は限られているし、体も一つしかないから取捨選択はしなければならず、何かを選んだ以上その他の物は捨てることになってしまうのは避けようがない。だけど、どうしてもその他のものが勿体なく感じてしまう。遠回りにも価値はあるのだ。欲しいと思っていなかったものも急にふとしたことで光り出すかも。

また、直線的に楽しむだけで終わってしまったら、ただその景色を楽しんだだけになって非常に味気ない。一方、寄り道しながら楽しんでいけばその土地を楽しんだことになる。さらに、インターネット上では逆に見られないいつも通りの景色を見ることが出来る。いいとされているものが自分個人にとってもいいとは限らない。案外ありきたりな景色が心に狭く深く突き刺してくることもある。こればっかりは何がベストかは判断できず、自然な心の動きを事後評価することでしか分からないが。ただ、決してベストとされていることが全員にとってのベストではないということは言える。人間は十人十色。

こう考えていくと、やっぱり直線的に目的物を味わうことが好きにはなれない。ただ、じゃあ遠回りを意図的にルートに組み込めばいいのか、というわけでもないように思う。それでは意図しないことを意図することになってしまい、結局意図の範囲外に逃れることが出来ないから。人間の想像って過去の経験に基づいているように思うし。頭の中で見た景色以上のものがこの世には広がっているはずだから。で、結局ふらふら適当に進んでいこうという結論に落ち着いちゃうわけ。放浪。

長々書いてきたけど、要は旅と旅行の違いは、目的物に対して直線的かそうではないかということじゃないのかと思っている。で、その中でも旅のほうが好きだよって話。

 今回の自転車日本一周も「旅」を無性にしたくなって始めた。これは「旅行」ではない。だから、各都府県庁をめぐるということ以外は、目的地や目的物を定めずに、さらには出発の直前までほとんど計画を立てずにいた。それは、これまで述べた考えによるところがある。加えて、野宿をしまくろうとしたことも、「旅」をするのであれば野宿をした方が面白いだろうと思ってそうした。

だが、実際に「旅」が始まってしまうと、「旅行」色が少しづつ強まってきてしまった部分はある。まず、想像以上に身体へかかる疲労が大きく、だらだら日本を一周することが現実的に想像できなくなり、基本的にはその日の目的地を定めてそこまでの比較的直線に近いルートを取ってしまったこと。また、野宿も、知識が無かったことも相まって一日で一旦ギブアップをしてしまった。もちろん、「旅」の要素も残ってはいたし、最後まで一貫して無計画に進んでいったが完全に「旅」と呼べるものではなかった。

だが、完璧ではないにせよ、今回の自転車日本一周は「旅」と言いたい。道中は自分なりに味わい尽くしてきた。中途半端な「旅」になってしまったことは反省点だし、心の弱さが出てしまったと思うが、それでも自分なりに自転車と荷物と体だけでやり切ることが出来たから、成長の面でも「旅」と呼ばせていただきたい。

 この旅を行ったときは19歳の終わり際。誕生日まで約2か月と言った時期に出発した。つまりはほぼ20歳。この旅はこの20年間に区切りをつけるという位置づけも実はあった。高校生まで続けていた陸上競技を引退してはや2年。それまでの生活の軸は、陸上競技にあって思っていた以上に依存していた。自ら朝練を課し、しんどい練習もやり抜き、インターハイという舞台を目標に日々練習に励んでいた。また、プライドの高い性格もあって、いわゆる文武両道を掲げ、実家を離れて寮生活を始めさせてもらい、校内ではある程度上位の成績はとっていた。これらの努力はすべて、気持ちの弱くすぐ逃げてしまう自分を理解したうえで、その自分を克服するためだった。朝練も寮生活も練習や勉強をしなければならない環境を整えるためだったと言っても過言ではない。小中ともにあまり勉強をしてこなかったし(それでも成績は良かったからなおさらしない)、小学校の時にやらせてもらったソフトボールもほとんど努力をしなかった。朝も起きれないし、すぐ楽な方に流れるタイプの少年だった。だからこそ、自分を変えるにはやらなければならない環境にするしかなかったのだ。

だが、人間の根本はそう簡単には変わらない。いざその陸上競技が無くなってしまうと、自分の中の秩序を見失ってしまった。実は勉強をやりたいわけでは無かったことにも直撃し、日々上から下へと時間を流しているだけで何も成長していなければ成し遂げる人間にもなれていないのではないか、という思いにすごく駆られる。だが、かといって何をすればと考えては、一本の軸が定まらないまま、それこそふらふらと生きていた。そんな自分をもう一度厳しい環境に追いやり、ここまでの弱い自分に「。」をうってやろうと思った。次の文章を書くためには句読点を打たなければならない。これまでの弱く逃げる自分に、ここで「。」を打っておきたい。だから、この旅はしんどいものであって当然だったし、その中でもやり抜いてこれまでの自分の人生、つまりは「千鳥晃輝第一章」の幕を下ろすことにした。

 よく、「一人旅」が中高生や大学生において推奨される。そしてその理由には「成長するから」、「学びが多いから」などがあるように感じる。ただ、個人的にはこの「旅」を通していろいろ感じたことがあるから、それを書いておきたい。

旅が始まって2,3日ほどで、もう十分すぎるほどの体験をしたように思う。景色や食事もそうだが、それ以上に険しい道や田舎や山での道、夜の道。更には夜暗い中パンクしてしまった。何も知らない、だれにも頼れない夜の道で。しかも、その日の目的地まで20㎞ほどもある場所。その時の孤独感や恐怖心、行き場のないムカつき、頭の中で顔を出すこのしんどさを知らない人たちからの言葉、これらに押しつぶされそうになりながら、必死に耐え抜く方法を探して、正しいかどうかやベストかどうかを確認しようがないまま、遂行していく。それまでに得た知識を基に答えを出していくしかない。それは机に向かって学んできたことかもしれないし、いろいろな場所に足を運んで得た経験によるものかもしれないし、誰かから聞いた話によるものかもしれない。はたまた、その場でスマホで調べた知識なんてこともあるだろう。どういう経緯であれ、自分のなかでどうにかして一つの答えを出し続けなければならない。

「意思決定」を回りくどく説明しているだけと言われればその通りかもしれないが、死のかかった決断に関してはこの旅においては結局は一人で下さなければならない。状況によってはそれを一瞬で。結局、これまでの人生の積み重ねでしか戦うことが出来ず、意図しない方向でこれまでの20年間に「。」を打つ行為を行っていた。結局、「旅」とはそれまでの人生の集大成でしかないのではないか。そして、困難に直面してはいろんな人の力を借りつつ最後は自分で乗り越えなければならない様は人生と何も変わらず、「旅」はミニチュア人生ともいえる気がする。

 旅から学ぶ。というよりは、旅で深める・磨く。のほうが正しいと思う。20年も生きていれば、大方のことは経験が出来る。そして、大体のことは根本的には同じだったりする。例えば勉強で結果を出す過程も、スポーツで結果を出す過程も、決して同じではないもののそこに根差す考え方や取り組みに関しては似通っている。他には、1日12時間勉強をしても、1日12時間自転車を漕ぎ続けても、毎日3㎞走り続けても、それぞれで感じる疲労やしんどさは違うものの、苦しい時の乗り越え方はどれを通しても学べる。ベストな乗り越え方こそ共通してはいないものの、根底では共通している部分が多い。その根本を吸い上げていれば、経験していないことでも経験したのに近い状態になることが出来る(もちろんやってみないと分からないことばかりだから、経験したと言うのは良くない気がするが)。

だから、初めての自転車日本一周旅とは言えど、そこで完全に新たに何かを学ぶということはない。20年間のうちに違う体験を通して学んできたことばかり。むしろ、新たな経験を通して、これまでに重要だと分かり始めていたことが、どれだけの重要度なのか、無駄なところや足りなかった部分はあるのかなどといった部分がより洗練されていく。また、何種類ものしんどいことを乗り越えればその分その人の乗り越え法には説得力が増す。これまでの学びを幹とし、それらを削っていって自分なりの彫刻を完成させていくような感じ。知らないことの方が圧倒的に多かった頃は、新たに知ることが成長の大部分を占めていたが、知識が増え彫ることが出来るぐらいに幹が太くなってくると、今度は彫刻作品としてそれらがいかに洗練されその人独特の見た目に仕上がっていくことが成長であるように思う(ちなみにその作品の見た目こそが個性であるとも思う)。大学生はもう大人。小学生や中学生ぐらいまでに旅をしたら学びのたくさんあるものになるだろうが、大人にとっては自己研鑽の時間と捉えた方がいいように思う。

 話がよく飛ぶから分かりにくかったと思うから、もう一度まとめておく。まずは、旅と旅行は違うと思っていて、個人的には旅のほうが目的物に直線的ではない分道草が食べられて好きだということ。次に、旅とはそれまでの人生の集大成であり、自分を磨く舞台であること。大人にとっては新たな学びを得る場所であるとは思わない。

 一章に幕が下りたことだし、さあ、第二章を書き始めますか。

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