アナトール

お試し程度の気持ちで作ったThreads(スレッズ)、宣伝ばっかりになっちゃう他のSNSとは差別化して、完全に趣味の場にしてみよかと、今年のはじめからぼちぼちと映画やオーディブルで聴いた本の感想を書き込んでいた。文字数制限がゆるめで、画像も要らないのは、なかなか気軽で助かる。(...映画だと、よく作中シーンを切り抜いて使っているのを見受けるのだけど、権利的にやっていいことなのかわからず、僕はビビってしまって出来ない)

しかし、半年も経たずにモチベーションが途絶えた。僕はわりと真面目っ子だったので、「三日坊主=ダメなこと」と思っているフシがあるのだけれど、試して、ちゃんと考えて辞めることにも学びがあるとも思えるようになってきたから良しとしよう。かくして、Threadsの存在意義は失われたのであった。もうちょっとしたら閉じちゃうかも。

作品毎の感想を書いていくことには興味があった。ただ、観たものを即時言葉にするその勢いとスピード感を生み出せなかった。人目に晒すものだと思うせいで、どうしても整えよう整えようとしてしまう。仕事でもないのに、鑑賞している最中にも、「どう言葉をまとめようかなー」という意識が働いてしまうのも不健康。そしてせっかく書いても、読み返すと、いかにも賢そうに振る舞おうと頑張っている己の気配がして、心地悪い。
次第に観た直後は気重になり、いざ文をこねくり出しては3日も4日もかかり、手間がしんどく、楽しめなくなってしまった。
たぶん、僕にとっての感想書きの主目的は「気持ちの備忘録」なのだと思う。だから、それはそれでどこかにオフラインで記しておくとして、でも何かしら外向けに書くことは、もっと個人的で、思い出や暮らしに絡み合ったことを書くほうがどうやら向いてるし、楽しめる。

とはいえ作品レヴューとか上手に出来るようになれたらという憧れもある。自分だってもらえたら光栄で嬉しいものだ。文化を盛り上げ、育てる為に、感想や評の共有はめちゃくちゃ大事。
そんな風に思ってるのだから、自分が何にもしないのは卑怯者だ。だから、僕なりにやらねばならぬという気持ちもあってこのnoteを書いてたりする。


小学生の頃、国語の教科書に『アナトール、工場へ行く』というお話があった。うろ覚えで、正確じゃないかもしれないけれど、ネズミの主人公・アナトールが、夜のチーズ工場に忍び込み、チーズを試食してはコメントカードを残す、というお話。「塩をあとひとつまみ加えること」というようなアドバイスが特に心に残っている。「たったひとつまみで味が変わることがあるのか!センサイだっ!」と、子ども心に驚きがあったのだ。アナトールの意見を取り入れた結果、工場のチーズは大人気になる、と、そんな結末だったと思う。

今思うと、あれはレヴュアーについてのお話だったな、と、ふと考える。いや、“感想”や“意見”かもしれない?“レヴュー”も、“評論”か“批評”か...そのあたりの定義や使い分けが不勉強でうまくわかってないけれど、ともかく、チーズをしっかり評価する能力のあるアナトールが正直な言葉を届けて、工場は外部視点を受け入れながらチーズの質を高める。双方のチーズへの愛と真剣さによって成り立つやつだ。シナジーだ。ウィンウィンだ。
工場とアナトールが、生産者と消費者もしくは専門家の関係であることもポイントな気がする。かつ、ある程度、顔の見えない間柄なところも。同業に対して心の底から賛否含めた評価するのって難しいなと思うのだ。特に身近なひとたちだったりすると、伝わり方も複雑になっちゃう(気がする)。だから僕の場合、音楽については若干避けがちになる。器が小さいなあ。

そんなわけで、書くことについての自己分析をしながら、うまいチーズが食べたい気持ちになってきた。

そうそう、もうひとつ、このタイミングでアナトールを思い出した要因があった。
我が家はとても古い古民家をお借りしていて、広いうえにところどころ外から侵入できちゃう隙間がある。ここ1週間ほどネズミが忍び込み、あちこちにウンチをこいていくのだ。ネズネズパニック。春にはよくあることなのだけど、今回はなかなか捕まらない。風呂場に昔の排水用の穴があり、そこが侵入経路と思われ、その周りに毒エサとベトベトシートを仕掛けている。
殺るぜ...さあ早くトールのだ。このルートを!

「や〜、“アナトール”って、めちゃくちゃネズミっぽい名前だよな〜、なるほどだな〜」と、きっと全国の子どもたちが感心していたことと思う。だがしかし、なんと原作はフランス。海を越えた言葉の奇跡である。

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