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齋藤芳生
2020年5月3日 23:05
交差点で信号を待っていると、足元の石畳にぽつぽつと音を立てながら灰色の斑点が増えてゆき、乾いて埃っぽい空気が静かに湿りを帯び始めた。遠くからやや苛立った車のクラクションの音が聴こえる。反対側の交差点で、誰かが雨から避難しようと急に走って道路を渡ろうとしたために、車が急ブレーキをかけたのだ。 一年の大半は蒸し風呂の中のように暑いアブダビだが、11月も半ばを過ぎるとだんだん気温と湿度が下がり、やが
2020年5月4日 22:37
アブダーラの詳しい生い立ちや毎日の生活について、私はほとんど知らない。彼は、私が勤めているアブダビの公立小学校に長いこと住み込みで働いている用務員さんである。 私がアブダーラについてわずかに知っているのは、彼がインド人であること、イスラム教徒であること(註:2001年国勢調査によると、インドの人口の13.4%はイスラム教徒。2011年現在では14.2%)、そして、学校で誰よりもよく働くひとであ
2020年5月5日 23:04
一緒にラス・アル・ハイマに行きましょう、と、勤務している小学校の校長であるサルマ女史が週末の帰り際に声をかけてくれたのは、ちょうど今(註:2010年3月)から二年前のことである。 アブダビで暮らし始めて半年が経っていた。アラブの、というよりも世界中の様々な文化や言語が飛び交う街での生活は毎日新しい刺激や発見に満ちていて想像していた以上に楽しかったが、半年経って不覚にも高熱を伴う風邪をひき、一日
2020年5月6日 22:16
袖を広げるとそれはまるで、羽化をしたばかりのアオスジアゲハが、ゆっくりと羽を広げているかのように見えた。光沢のある、しっとりと肌触りのよいシルクの黒。肩から袖口にかけて大きな、しかし軽やかな襞が幾重にもついた黒い薄布がふわりと被せられており、足元まで伸びている。その襞は鮮やかなエメラルドグリーンで繊細に縁どられているのだった。このエメラルドグリーンの縁どりにはさりげなく銀色のラメが入っていて、手
2020年5月7日 23:17
真夏には毎日50度近くまで気温が上がり、湿度も90パーセントを超えるアブダビだが、11月から3月にかけては、日本の初夏のような、からっとしてさわやかな気候が続く。それはそんな気持ちのよい天気が続いていたある週末の、ちょっとした冒険だった。 ――サイトウの住んでいるフラットの近くに、大きなスーパーマーケットがあるでしょう。その道路を挟んで向かい側の、奥にあるのよ。 エジプト人の同僚で、音楽担当
2020年5月8日 20:37
初めて校長のサルマ女史に会った時、別れ際に彼女がにっこりと笑って、――じゃあミズ・サイトウ、インシャアッラー、また明日。そう言った時のちょっとした驚きと感動は、三年が経った今でもはっきりと思い出すことができる。――ああ、私は本当にアラブに来たんだ。 「インシャアッラー」。アラブ圏を訪れたなら誰もが耳にするこの言葉。アラブ人がこれから先の未来のことを述べようとする時に、必ず添えられる言葉であ