見出し画像

ジャンボジェットから、命を学ぶ

こんにちは。

谷塚総合研究所の塚本です。


今、生きている私たちには、忘れてはならないことがあります。

それは「今、生きている」ということ。

忙しい日常は私たちを今この瞬間から過去や未来へと振り回し、忘れてはならない大切なものが今ここにあるという現実から私たちを遠のかせます。

間違いなく。私たちは今、ここに生きています。



1978年6月2日、日本航空115便は羽田から伊丹空港へと乗客乗員394人を乗せ航行していた。

機体である「747」は、ボーイング社の超大型旅客機であり、世界初の2階建て旅客機として脚光を集めた。
いわゆる「ジャンボジェット」は世界中を飛び回り、当時200人程度だった最大収容乗客数を大きく上回る450人程度の人員の搭乗を可能とした。
当時の子供たちの憧れを一心に受けていたことは想像に難くない。

当時の旅客機は2基のエンジンを搭載していたのに対し、ジャンボジェットは4基のエンジンを搭載し、見た目や推進力の向上だけでなく、エンジントラブル時のリスクヘッジにも役立つと考えられていた。

日本航空115便は、8000時間に迫る総飛行時間経験の機長と、564時間の副操縦士による飛行であり、東京から大阪という短距離飛行であったので、何も問題はなく旅客機は伊丹空港に着陸するものかと思われた。

だが、飛行機の操縦というのは非常に繊細で、ごくわずかな操縦ミスが重大な航空事故へとつながる。
115便は本来であれば、機首を6度上方に傾け着陸すべきところを13度傾け、機体後方が地面に接触した。

その結果、機体後方を地面に打ち付けバウンドし、さらにもう一度機体を地面に強く打ち付け不良着陸した。
乗員乗客394名のうち 2名重症、23名軽傷という事故であったが、幸いにも死者はおらず、火災や機体の大破も免れた。

いわゆる「しりもち事故」を起こした115便は、ボーイング社へと修理のため送られることとなった。

修理後は、軽微なパイロットミスこそあったものの、順調に機体はフライトを行うことが出来、問題ないかのように思われた。



11年後の8月12日。

18:00羽田発伊丹着フライト予定の当該機は、予定時刻より4分遅れて搭乗口を離れ、18時12分羽田空港を離陸した。

お盆前日の最盛期ということもあり、機内には509人もの乗客が搭乗しており、機内は真夏の熱気と人の多さで蒸し返っていた。

後継機の「ボーイング777」はまだ開発されておらず、製造販売から10余年と経つ747であるが、人気は変わらず絶大なものであった。
「夏休みに、ジャンボジェットに乗った」という経験は、当時の少年にとってはかけがえのないものであったはずだ。

離陸直後の機内からの写真

事態は離陸後まもなく起こった。

18時24分35秒頃、当該機は巡航高度である24,000フィートへ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音が発生した。
続いて機長である高濱雅己が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。
直後、当該機は非常事態を東京航空交通管制部に発信し、羽田へ引き返すことを要求した。

無線交信の後、機長は副操縦士である佐々木 祐に「機体を傾けすぎだ、戻せ」と指示。
副操縦士からは「戻りません」と返答があり、同乗の航空機関士、福田 博は機体の油圧が異常に低下していることに気づいた。

飛行機にとって、操縦桿から機体へとコントロールを伝達する油圧が低下していることは、操縦不能を意味している。
この段階で、機体の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用した昇降舵や補助翼の操舵が不能になっていた。

後の調査・実験によれば、異常発生から0.4秒後には、機体後方の垂直尾翼が吹き飛び、高圧の作動油すべてが噴出していたと思われる。
写真は当該機を地上から撮影したもの、機体後方の垂直尾翼がほぼすべてなくなっているのが分かる。

客室内では、「パーン」という音とともに白い霧のようなものが客室内を覆い、酸素マスクが下り、異常事態に対する混乱やパニックが起こるものかと想像するが、この「謎の霧」は数秒で晴れ、客室内は酸素マスクこそぶら下がって不穏な雰囲気ではあるが、乗客はまだ楽観視していたようだ。

この時に、客室内と機体後部の気圧を分断する圧力隔壁が破損したと考えられており、客室内の高圧な空気が機体後部に流れ出し、垂直尾翼は機体の内側からの異常な気圧を受け、「爆発」したとされる。

だが機体は、全操縦舵故障という最悪の事態となっており、機長と副操縦士、航空機関士は原因不明の操縦不能という状態で戦い続けていた。
27分、航空機関士が「油圧全て喪失」を発出。
もはや機体は、エンジン出力とわずかな電動部品のコントロールしか残されていなかった。

客室の気圧低下を示す警告音がなっていたため、機体は高度を下げざるを得なかった。
しかし、ほとんどコントロールができない機体は、のちの分析で「機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度」の動きが記録されていた。
機体のコントロールはおろか、大気と気流の成すがままといった状態であり、乗員乗客の心中は計り知れない状態であったと推測できる。

31分40秒、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。
機体は1000m余りの上昇と下降を繰り返しており、コックピットでは、右・左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回、ブラックボックスに記録されていた。

46分、機長が「これはだめかも分からんね」と発言。
機体は山岳地帯上空へと迷走していく。

49分、機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。
この間、機長が「あーダメだ。終わった。」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(最大出力)、マックパワー、マックパワー」などと指示していた。

50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と激励の発言。
機長の「機首下げろ、がんばれがんばれ」に対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。

54分、パイロット達は現在地を見失い、航空機関士が羽田管制塔に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から40 km西の地点であると告げられる。

55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はい。フラップ10度下げます」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

(フラップとは主翼後方に位置し、下げれば飛行機の揚力が増大する装置)

55分12秒、フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。

55分15秒から機長は機首上げを指示。

43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。

45秒、「あーっ!」という叫び声が記録されている。

50秒頃、副操縦士が「フラップアップ、フラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m)を切っていた。

56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。

07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。
機長は最後まで「機首を上げろー、パワー」と指示し続けた。

パイロット達の必死の努力も空しく機体は降下し続け、
56分14秒に対地接近警報装置が作動。
17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたのだが。

56分23秒に右主翼と機体後部が樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。
このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h)以上に達していた。

接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。

56分26秒には右主翼の先端が尾根に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落。

56分28秒には機体後部が分離した。

機体前部は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、
56分30秒に山の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。


異常発生から墜落まで約32分。
逃げ場のない乗客乗員は、一体どのような時間を過ごしたのだろうか。


墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。

時速630㎞で墜落したのである。
それも山の斜面に向かって激突する形で。

尾根に激突した機体前部の乗客乗員は、機体の破壊とともに尾根に投げ出され死亡し、五体あった遺体もあったが、多くの遺体は全身挫滅、全身挫折、内臓破裂による臓器脱出、全身の表皮剥脱など激しく損壊していた。また火災により完全に焼損した遺体も多かった。



あまりにも凄惨な事故であるが、追い打ちをかけるように救助活動が難航した。

21時05分ごろ、救難ヘリコプターKV-107は、隊員を降下させる場所を探すため高高度での偵察を開始した。だが、墜落現場は無数の火柱が合わさって巨大な火炎となり、黒煙と闇夜でサーチライトを照射してもライトが届かず地上の様子がわからなかった。
当時のパラシュートでは傘操縦性能が悪く、気流により巨大火炎の真っ只中へ着地してしまう恐れがある。また、強行着陸等も障害物の把握がされていない為、2次災害のリスクが大きくどれも実行可能性は難しいとの結論になった。

墜落後初めての救助ヘリからの降下は午前8時30分。
墜落からすでに13時間が経過していた。

午前9時になり、ようやく陸路から自衛隊の到着、空路からの救助部隊降下が行われ、本格的に救助活動が開始された。

陸路は、現場までは熊笹の生い茂る傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。

午前10時45分、県警機動隊員が機体後部の残骸の中から生存者を発見した。
生存者は4人で、発見の順番に非番の客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生となっている。

最初に発見された非番の客室乗務員は、残骸に挟まれて胸から上が左にくの字になり、右手だけを出して手を振っていた。
二番目の主婦は、客室乗務員の残骸を取り除いているうちに、数メートル上方に空洞があり、そこから見つかった。
三番目の女子小学生の娘は、母親のすぐそばで下半身を残骸に挟まれて仰向けになっていた。
四番目の女子中学生は、客室乗務員から2メートルほどの場所から逆立ちしているような状態で見つかった。

救出された4人とも重傷を負っており、垂直差110メートル、水平差220メートル、平均斜度30度の急坂を、急ごしらえの担架でヘリコプターで引き上げ可能な尾根の上まで担ぎ上げられた。

現場に降下した医師の所見では、
生存者の状態は脈は女子小学生は微弱だったが、他の3名は比較的良好。
非番の客室乗務員は顔面挫創、左上腕前腕骨折、全身打撲。
主婦は頭部、顔面挫創、門歯は折れ、肋骨骨折。
女子小学生は両下肢骨折、全身打撲顔面挫創。
女子中学生は右手首、左下肢挫創、全身打撲だった。

生存者の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたという。
また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある。

大半は即死だと考えられるが、墜落後も生きていた人がいたかもしれないのだ。
ただ、生存者であれ異常な精神状態での記憶であり、その声が本当に誰かが発していたのかは断定できるものではない。

彼ら生存者は、無数の死と火炎と夜に囲まれ、救助の目途も経たぬまま、身動きの取れぬまま、16時間という長い時間を生きた。



これは、死者520名という航空事故「日本航空123便墜落事故」の詳細である。

生存者4人を含めた524名が、生きていた時間。
死を目の前にした、墜落までの32分という時間。
生存者が救助を待った、16時間というとてつもなく長い時間。

私たちは「再発防止のための記憶」として、過去の惨事を振り返ることはあっても「今、生きている」ということを確認するために、過去の惨事を振り返ることは多くない。

123便墜落事故の直接的な原因は、冒頭に記した「しりもち事故」後の修理ミスであると報告された。


私たちは、520名の犠牲者と4人の生存者から、何かを学ぶことは出来るのだろうか?

人間というのは忘れる生き物であって「死を目の前にして初めて、自分が生きていることに気づく」ものではないだろうか?

事故の再発防止はもちろんだが、私たちは524人の被害者から「今、生きている」ということを学ばなければいけないのではないだろうか?



この記事はWikipediaの情報をベースに構成されており、事故に関わる様々な部分で本記事とは違う説があります。


最後までご覧いただき、ありがとうございました。

普段は、読書・心理学・ガジェット・自作PCなんかの記事を書いています。

良かったらスキ・フォローの方もお願いします。

サークルも始めました。

こちらは現在、スタートアップ期間で無料利用が可能です。

Twitterもやってますので、よかったらフォローお願いします。


この記事が参加している募集