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武田二十四将のことをもっと知ってほしいので紹介する

ボンチノタミ、ジョーカーです。

今週末、10月28日(金)~30日(日)はいよいよ山梨県甲府市で『信玄公祭り』がおこなわれます。
実に3年ぶりの開催。さらに、今年は初の秋開催。
翌週11月6日(日)には笛吹市でも『川中島合戦戦国絵巻』がおこなわれます。まさに、今年の山梨は信玄の秋です。

▼先日もこの記事の最後のほうで、ちらっとお話ししましたね。

武田信玄には多くのすぐれた家臣がおり、後の世では『武田二十四将』と称されています。
『信玄公祭り』のメインイベントとなる『甲州軍団出陣』は、武田信玄公と武田二十四将が出陣する姿を再現しています。
ギネスにも登録された世界最大の武者行列です。
例年祭り2日目に開催されており、今年も29日(土)に出陣予定です。

『信玄公祭り』では、二十四将たちを武田信玄の旗印である『風林火山』の4つの軍団に分けています。
『甲州軍団出陣』には、『武田四郎勝頼隊』『大井夫人行列』『三条夫人行列』『湖衣姫行列』『武田信玄公本陣』と二十四将による『風・林・火・山』の軍団があり、これら9つの隊が行列を成し、進んでいきます。
※なお、笛吹市でおこなわれる『川中島合戦戦国絵巻』でも二十四将が『風・林・火・山』の4つの軍団に分かれていますが『信玄公祭り』とは分け方が異なっています。今回紹介するのは『信玄公祭り』の分け方です。

せっかくなので、この機会になんとなくでいいから武田二十四将のことを知ってほしい。
できれば推しを見つけてほしい。
そんなわけで二十四将、ざっくりまとめました。
以前、いろんな資料を見ながらまとめたものなのでごちゃっとしていますが、ざっくり読んでください。

なお、説明文中にたびたび出てくる「晴信」とは武田信玄、「信虎」とは信玄の父・武田信虎のことです。
信虎は、信玄によって甲斐を追放されています。(この追放とか暴君とかの辺りも近年は諸説出てきていて面白いので、気になった方は信虎も調べてみてね)


武田二十四将

風の軍団(風の1番隊~6番隊)

①飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶのしょうゆうとらまさ)

飯富虎昌【一期四天王・飯富の赤備・義信事件】
信虎・信玄に仕える。
信虎時代には武田氏と扇谷上杉氏との婚姻に反感を抱き反旗を翻すも、後に降伏し臣従が許される。
信玄の嫡男・義信の後見人に任命されるが、義信とともに謀反を企んだとし自害させられる。
俗にいう義信事件であり、謀反のたくらみ有りと信玄に密告したのは弟の飯富三郎兵衛(山県昌景)といわれている。

②横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)

横田高松【甲陽五名臣・知勇の武士】
武田五名臣のひとり。信虎・信玄に仕える。
信虎の代に甲斐に入国したとされる。
弓矢巧者で、甘利の相備えとなり各地で戦功を挙げた。
34度の戦で、31の戦傷があったという。
砥石崩れの際、混乱する自軍を殿軍として支え、村上軍を一手に引き受け戦死した。その死は信玄を嘆かせ、原虎胤と並び評された。
原虎胤の子が横田の婿養子に入り勝頼にも仕えたが、長篠の戦いで討死した。

③真田弾正忠幸隆(さなだだんじょうのじょうゆきたか)

真田幸隆【攻め弾正・智謀の将】
幸綱とも。剃髪後は一徳斎と号す。
信虎や村上義清らによる信濃侵攻で領地を失い寄る辺を求めていた頃、甲斐国では晴信が信虎を追放。その若き武将の将来性を見抜いたのか嫡男も連れて武田家に出仕した。
信玄が砥石崩れで大敗した後、幸隆の調略による工作で砥石城をわずか1日で落としたという。
その智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。
武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
第四次川中島の戦いでは嫡男・信綱、昌幸らとともに妻女山への奇襲部隊に加わった。
1567年に病気のため信綱に家督を譲り隠居、以後は信玄の行軍に加わることはせず上杉・北条らの抑えとして活動した。
1574年、戸石城で病死。

④武田刑部少輔信廉(たけだぎょうぶのしょうゆうのぶかど)

武田信廉【影武者・画家】
晴信・信繁の異母弟。
後に出家し逍遙軒信綱(しょうようけん・のぶつな)と号す。
信玄と骨相が似ており、影武者も務めた。信玄の側近たちですら見分けがつかなかったという。
信玄の死後、信廉は北条家の使者に対し信玄として対応し、信玄は存命であると思わせたほどであった。
絵に秀でており、現存する信虎像や信虎夫人像といった肖像画などは信廉が描いたものとされる。
勝頼とは反りが合わなかったのか、長篠の戦いでは早々に退却、これも敗因のひとつとなったとされる。
甲州征伐の際は織田軍に城を明け渡し甲斐へ引いている。
しかし、勝頼自刃から13日後、織田軍の執拗な残党狩りに遭い殺害される。

⑤馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)

馬場信春【二期四天王・慎重無敵・鬼美濃を継ぐ・不死身の馬場美濃・不死身の鬼美濃】
武田四天王のひとり。信房とも。教来石景政。
1546年、信虎によって当主を討たれ途絶えていた馬場氏を継ぎ名を改める。原虎胤の異名であった鬼美濃を継ぐよう信玄に美濃守を命ぜられる。
知勇に優れ、21の合戦においてかすり傷ひとつ負わなかったという。
三増峠の戦いでは先鋒を、川中島の戦いでは別動隊の指揮を、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を浜松城まで追いつめるなど、数々の武功を挙げている。
また、駿河侵攻で先鋒を務めた際、今川氏が収集した財宝や名物が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけ「貪欲な武将として後世の物笑いになる」として、周囲の面々が止めるのも聞かずに財宝を再び火中に投げ込んだ。
信玄はこれを知って「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったと言われている。
信玄亡き後勝頼に仕えるも、長篠の戦いでは撤退を進言するも受け容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられたという。
長篠の戦いでは殿を務め、勝頼が撤退したのを見届けた後、反転して織田軍と戦い討死したとも首を差し出したとも言われている。
しかし殿を務めた時もまだ無傷であった。

⑥三枝勘解由左衛門尉昌貞(さいぐさかげゆざえもんのじょうまささだ)

三枝昌貞【山県昌景の猶子】
守友とも。信玄・勝頼に仕える。
武田家の奉公人であった虎吉の嫡子で、もとは信玄の近習衆として仕えていたが信玄にその才能を認められ足軽大将に出世。
一時期信玄の勘気に触れ蟄居したとの記録も。
三枝氏は山県昌景を寄親としており、昌貞は山県昌景の娘婿であった。
後に猶子となり、1568年頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。
三方ヶ原の戦いでの活躍振りを見た山県が名刀吉光の太刀を授けており、山県には「若獅子のよう」と評される。
長篠の戦いにおいて酒井忠次らの奇襲を受け戦死。これが設楽ヶ原の前哨戦となった。

林の軍団(林の1番隊~6番隊)

①内藤修理亮昌秀(ないとうしゅりのすけまさひで)

内藤昌秀【二期四天王・真の副将・忠義の武士】
信虎を諫めた際に勘気に触れて殺された「工藤殿」が兄(一説には父と兄)にあたるという記録がある。
晴信による信虎追放の際に帰参し信玄の側近として仕えた。
史料による初見は「工藤源左衛門大尉」であり、また本名は長らく「昌豊」とされてきたが「昌秀」であり、三増峠の戦いの後、信玄が内藤修理亮を名乗らせたとされる。
上杉謙信からの同盟を退けるなど、軍事・外交面で一定の権限を持ち、信玄からの信頼も厚かった。山県は「典厩信廉と並んで真の副将である」と評している。小田原城攻めの際は馬場からの謎かけの助言を受け兵を退いたという逸話も。
信玄亡き後は勝頼に仕える。長篠の戦いでは馬防柵を突破し本田忠勝の陣にまで突入するも退けられるが、果敢にも家康本陣に突撃し、全身に無数の矢を射られても起き上がろうとしたという。最期は朝比奈泰勝によって討死。

②小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)

小山田信茂【勝頼からの離反】
信玄の従兄弟とされる。
駿河侵攻や三方ヶ原の戦いでは先鋒を務める。三方ヶ原の戦いでは投石隊を用いたとされるが事実を裏付ける史料は見つかっていない。
信玄亡き後は勝頼に仕える。長篠の戦いでは徳川勢と競り合ったとされ、勝頼の身辺を警護し退却したという。
御館の乱では景虎支援を要請され越後へ出兵。これに対し景勝は勝頼と和睦交渉を試み、勝頼はこれに応じて景勝・景虎間の和睦を仲介している。その後も上杉との取次を担った。
設楽ヶ原の戦いでは山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けた。
甲州征伐の際、勝頼は側近の助言で自身の居城であった新府城から小山田氏の居城である岩殿城(岩殿山城)へ退避したが、その途中で小山田は織田軍に寝返ったとされており、頼ってきた勝頼を鉄砲で追い払ったとされている。
その後は織田信忠に投降するも、武田家を裏切ったことを責められ処刑に至る。切腹という形であったが、嫡男や姫君までも処刑されるという厳しい処分であった。

③穴山玄蕃頭信君(あなやまげんばのかみのぶきみ)

穴山信君【裏切りと再興・家康との縁】
のぶただとも。穴山梅雪。
母は信虎の娘(信玄の姉)であり、信玄の娘を正室とする。
土地柄、穴山氏は今川氏との外交役を担っていた。
第四次川中島の戦いでは本陣を守った。
義信事件では弟の信嘉が切腹している。
信玄亡き後は勝頼に仕える。長篠の戦いでは撤退を進言したが受け容れられず独断で戦線を離脱、これが敗因のひとつになったと言われている。
甲州征伐の際には外交で伝手のあった家康を頼り織田軍と内応。甲斐に侵攻した徳川軍の案内役となる。
武田家再興を掲げていたとされるが、勝頼ひいては武田家に対する離反・謀反といった説が多い。
最期は京都で落ち武者狩りの百姓勢に襲撃され殺害された。

④土屋右衛門尉昌続(つちやうえもんのじょうまさつぐ)

土屋昌続【忠義の血筋】
清和源氏流武田一門である金丸氏の生まれ。父である金丸筑前守は武田家の譜代家老で、晴信の守役であったという。
初陣である第四次川中島の戦いにおいて武田本陣まで攻め入られた際、信玄の傍を離れずに応戦したことから侍大将となる。
この頃はまだ金丸平八郎と名乗っていたが、その功を認められて土屋姓を名乗るよう命じられたとされる。
信玄死去の際は殉死しようとしたが高坂に説得され、遺骨を甲府に持ち帰り躑躅ヶ崎館付近にあった自分の屋敷の庭に埋葬、これが現在の信玄の墓所となっている。
信玄亡き後は勝頼に仕える。長篠の戦いでは三重柵の二重部分まで突破したところで鉄砲に撃たれ討死。
弟の昌恒が家督を継ぎ、天目山の戦いで勝頼が討死する最後まで仕え、忠義を貫いている。

⑤武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)

武田信繫・武田典厩【まことの武将・信玄に並ぶ器の持ち主】
信玄の4歳下の弟。信玄をよく助けた。
信虎は信繁を後継ぎとするつもりであったが、信繁自身は兄である晴信について信虎を追放している。
領地支配をおこなっていることが確認されておらず、戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、統制する立場として出陣したと考えられている。
教養のある人物であり、敵味方問わず高く評価され、その死は敵である上杉謙信にも惜しまれた。
信玄は信繁の遺体を抱いて号泣したといい、家臣団にも「惜しみても尚惜しむべし」と評された。
存命であれば義信事件は起こらなかっただろうと言われている。
嫡子も典厩と名乗っているため、古典厩と表されることが多い。
第四次川中島の戦いで死亡。上杉方に奪われた首を家臣が取り返したとされる。
真田昌幸は信繁を尊敬しており、次男に信繁を名乗らせた。後の真田幸村である。

⑥一条右衛門太夫信龍(いちじょううえもんのたゆうのぶたつ)

一条信龍【伊達者・勝頼の後見人】
信虎の八男か九男。信玄の異母弟。
風流を好み花を愛する伊達者。
常に新しい武具と良い浪人を集めていた。
信玄からの信頼も厚かった。信玄の遺言で勝頼の後見人となり、長篠の戦いでも勝頼の戦線離脱を見届け退却。
1582年の織田信長による甲州征伐で討死もしくは斬首とされている。

火の軍団(火の1番隊~6番隊)

①原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)

原昌胤【陣奉行・冷静沈着・知将】
同じ原姓だが、虎胤とは出自が異なる。
地理守備の術に優れ、陣場奉行として120騎を率い才能を発揮。父親譲りの冷静沈着機を見るに敏な切れ者であったとされる。
平時においては土木技術者として治水工事で活躍し、多くの業績を残した。
鬼神の子という逸話を持つ。
一時失脚したとされるが詳しい原因は不明。
信玄亡き後は勝頼に仕える。長篠の戦いにおいて陣場奉行として勝頼に撤退を進言するも容れられず、最後は銃弾を受け戦死した。

②高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)

高坂昌信・高坂弾正【二期四天王・逃げ弾正・武田に尽くした将】
武田四天王のひとり。春日虎綱。
石和の百姓の子で、父が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴し身寄りがなくなったところを信玄の奥近習として召抱えられた。
はじめは使番として働き、後に足軽大将に。百姓出のため周囲の目は冷たかったが、信玄の面子を潰さないために耐え続けたという。
信玄との衆道については真相は定かではないが、信玄の寵愛は受けていたと考えられる。
第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊として功を挙げた。
信玄亡き後も海津城で上杉を抑える役を担うが、勝頼には疎まれていた。
しかし長篠の戦いで勝頼が敗走すると、甲斐に戻る前に身なりを整えさせたり、戦死した将の子弟を取り立てて家臣団を再編させることや戦場を離脱した親族衆に切腹させることを申し立てたりしたという。
御館の乱では上杉景勝との取次を務め、甲越同盟の締結に携わっているが、病のためこれを途中で子に引き継ぐ。その後、海津城にて死去した。
甲陽軍鑑の著者とされる。「逃げ弾正」の由来は冷静で撤退戦に強かったことからとされている。
美男子だったと言われている。

③真田源太左衛門尉信綱(さなだげんたさえもんのじょうのぶつな)

真田信綱【豪遊の将】
幸隆の嫡男。真田昌幸の兄。信玄・勝頼に仕える。
第四次川中島の戦いでは、父・幸隆、初陣であった15歳の弟・昌幸とともに妻女山の奇襲部隊に加わったとされる。
戦場では専ら父・幸隆や弟・昌輝らとともに行動しており、駿河攻めの先鋒や三増峠の戦い内藤とともに殿軍を務めるなどして武功を挙げている。
信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたという。
甥(昌幸の次男・のちの幸村)の真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったといわれる。
三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務め、三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し奮戦した。
長篠の戦いには弟・昌輝とともに真田軍を率いて参戦、鉄砲隊の銃撃によって弟とともに戦死した。
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれ真田家臣によって甲斐に持ち帰られ、「血染めの陣羽織」として収蔵されている。

④甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)

甘利虎泰【一期四天王・古参剛武者】
信虎時代の四天王のひとり。四宿老。信虎・信玄に仕えた。
信玄時代には板垣と並び武田家最高職の両職に任じられた。
信虎に仕えていたが、晴信による信虎追放の際には迷った末に晴信についた。
甲斐武田・一条の流れをくむ武田氏の庶流にあたる。
剛の武者と評され、山本勘助にもその見事な采配ぶりに感嘆している。
合戦においては損害を少なくするよう配慮して臨んでいたといわれる。信玄から素破を預けられ諜報活動をおこなっていたとも。
上田原の戦いにおいて板垣を討ち勢いに乗った村上勢から信玄を守り討死。

⑤小幡山城守虎盛(おばたやましろのかみとらもり)

小幡虎盛【甲陽五名臣・鬼虎・豪傑・猛将】
小畠とも。武田五名臣のひとり。信虎・信玄に仕える。
父に従い遠江から甲斐へ入国、父が討死すると14歳で家督を継いだ。
今川配下福島正成が進行してきた際には原虎胤とともに迎撃の最前線を担いこれを退けるなど武功を挙げ、信虎から「虎」の字を貰う。その武勇から「鬼虎」と称された。
信虎追放後は信玄に従って活躍。信玄が入道すると剃髪し、日意と号す。
生涯参戦した戦は36戦、貰った感状も36枚。41ヶ所の傷を受けた歴戦の勇将。
後年は高坂の副将を務め、最期は海津城にて病死。
遺言は「よくみのほどをしれ」。勇猛で命知らずな猪武者といわれる彼であった故にこそ、遺したこの言葉は深い。
川中島の合戦を目前にして病没したことについて、世紀の大合戦に参戦するのにふさわしくない人材だと虎盛が自己判断し、自らの身の程を知って昇天したのではないかと皮肉的に解釈する向きもある。

⑥山県三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)

山県昌景【二期四天王・赤備・花も実もある勇士】
武田四天王のひとり。飯富虎昌の弟(もしくは甥とも)。
虎昌に勝るとも劣らない武功を挙げ「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたという。
武勇に優れていたが風采は冴えなかったようで、身長も小柄で不器量であったと伝えられている。
川中島の戦いの際、上杉の猛将、鬼小島弥太郎と一騎討ちを行った逸話がりあり、その最中、武田信玄の嫡男の義信が窮地に陥るのを見て、昌景は弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたい為、勝負を預けたい」と願い出たところ、弥太郎が快諾したことより、弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛した。
一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたという。
信玄亡き後は馬場とともに勝頼の補佐を務めるが、勝頼は老臣を疎んでいた。
勝頼による東美濃侵攻における明智城攻めの際は一時は瀬戸際まで追い詰められるも山岳地帯の地形を利用し織田軍を撤退させた。
長篠の戦いでは撤退を進言するも受け容れられず、退却後、追撃戦の最中に戦死したといわれている。
山県の赤備えは最強の代名詞となり、後に井伊・真田などが採用した。

山の軍団(山の1番隊~6番隊)

① 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)

多田満頼【甲陽五名臣・妖怪退治・鋭い野生勘】
生年不明。多田三八郎(さんぱちろう)。武田五人衆のひとり。
美濃国生まれで信虎・信玄に仕えた。
夜襲を得意としたとされ、信玄の信濃侵攻の際には夜戦を指揮し勝利へと導いている。
その戦いで自身も93の首級を挙げた。
塩尻の火車鬼退治、湯村の天狗を倒した鬼の湯伝説の人物とされる。
29の戦場に出て29の武功を挙げ、全身に27ヶ所の傷を持つ。
第四次川中島の戦いの際は病床にあり、代わりに息子を参戦させる。その2年後に病死。

②板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)

板垣信方【一期四天王・第二の父】
武田四天王のひとり。四宿老。信虎・信玄に仕えた。
信玄時代には甘利と並び武田家最高職の両職に任じられた。
信虎に仕えていたが、晴信による信虎追放の際には晴信についた。
武田家中でもっとも頼りになる武将と評されている。信玄の第二の父とも。
1512年の今川軍15,000による侵攻の際は武田御曹司(晴信)誕生の朗報に士気を上げ、馬場とともに先鋒を務め2,000の軍勢でこれを防いだ。
上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受け討死。
子孫は信玄によって追放・謀殺され嫡流は一旦断絶したが、信玄の命により再興、甲斐板垣氏の嫡流となる。
追放された子孫が板垣退助の祖先である。

③小幡豊後守昌盛(おばたぶんごのかみまさもり)

小幡昌盛【鬼の子】
虎盛の子。信虎・信玄に仕える。
川中島の戦いの前に父が死去したことにより家督を継ぎ、父同様高坂の補佐を命じられた。
しかし海津城副将に命ぜられた昌盛は信玄の旗本に収まることを望み信玄の怒りを買い甲府妙音寺に蟄居となり切腹を命じられる。勝頼や土屋の懇願により赦免され、足軽大将にとどまったという逸話がある。
「鬼の子には鬼の娘が相応しい」との信玄の計らいで、原虎胤の娘を正室とした。
甲州征伐の際は病床にあり参戦できず、武田氏の敗勢が濃厚になりつつあったとき、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをし、その後病死。
その病は地方病として有名な日本住血吸虫症ともいわれている。

④ 秋山伯耆守虎繁(あきやまほうきのかみとらしげ)

秋山虎繁【三代に仕える・外交・織田による処刑】
信友、春近など。信虎・信玄・勝頼に仕える。
高遠城の整備、美濃・遠江・三河方面の外交などに携わった。
三方ヶ原の戦いの際、家康に「武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と評される。
織田に対し岩村城城兵の助命を条件に降伏するが城兵は殺害され、自身は長良川で逆さ磔となり処刑された。

⑤原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)

原虎胤【甲陽五名臣・鬼美濃・夜叉美濃】
同じ原姓だが、昌胤とは出自が異なる。
武田五名臣のひとり。信虎・信玄に仕えた。鬼美濃と称される。
父・友胤とともに甲斐に落ち延び信虎家臣になったとされる。
友胤は信虎の下で功績を挙げ、虎胤も主君・信虎から「虎」の一字を貰い受けて足軽大将として活躍した。
信虎追放時は信濃にいたが、主君追放の報せを受けると急ぎ帰国し板垣や甘利に猛抗議したという。しかしその後は信玄に仕える。
鬼美濃、夜叉美濃などと恐れられたが、負傷した敵兵に肩を貸し敵陣まで送り届けたとする逸話が残る情け深い大将でもあった。
攻城戦の名手としても名高く、虎胤の落とした城は補修が最低限で済んだと伝わる。
信玄に日蓮宗に改宗するように迫られ拒絶したため一時甲斐を追放され相模北条氏に身を寄せる。その後帰参するが、帰参の際に北条氏康は大変に別れを惜しんだという。
戦による負傷が原因で第四次川中島の戦いには参戦せず、以後は第一線を退く。病死。

⑥山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)

山本勘助【甲陽五名臣・信玄の軍師】
10年間に及ぶ各地での武者修行の旅の中で兵法を会得し、築城や戦法などを極めた男。今川に仕官を認められず牢人のまま駿河で9年間を過ごす。
その理由は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で指もそろっていない、という異形を今川義元が嫌ったためとされる。
しかし兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、板垣が晴信に推挙。1543年、勘助は武田家に仕官する。晴信は破格の待遇で勘助を迎えた。
また、信玄は甲斐に入国するにあたってその身なりを整えねば家臣にも認められぬと考え、馬や小袖などを与えた。
信玄とは兵法についてよく語り合い、武田家臣から妬みを受けることもあったが信玄がこれを許さなかった。
信濃侵攻では9つの城を落とす大功を立てる。
諏訪との婚姻については重臣たちが反対する中、勘助はそれを強く勧めた。
上田原の戦いでの策により武田家臣団にも認められるようになる。
信玄が出家すると勘助もそれに倣って出家し、道鬼斎と名乗った。
高坂は勘助が縄張りした海津城を「武略の粋が極められている」と語っている。
一説によると幸隆と懇意であり、また馬場に対して築城術を伝授している。
第四次川中島の戦いにおいて「啄木鳥戦法」を献策。しかし上杉謙信にこれを破られ、最期は勘助も戦場に散った。
死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討死。満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られた、とされる。

信玄や勝頼、大井夫人、三条夫人、湖衣姫などのお話もしたいところですが、今回はここまで。
いやー、24人は多い。多いよ。真田十勇士くらいだったらちょうどいいのに。
長々書いてきましたが、推しになりそうな武将がいてくれたら嬉しいです。

わたしの推しは馬場美濃です。板垣甘利コンビも好きです。

ここのところ、駿府攻め、彦根攻めと続いてまいりましたが、今週末は、いよいよ我らが信玄公、甲州軍団出陣でございます。いざ。


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