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20代はあっという間に過ぎ去って行き、30代は突然にやってくる(part2)

先日30代に突入したということで、ゆるりと20代を振り返り中。part1では「大学時代」と「社会人1年目」の振り返り。

今回のpart2では、「社会人2年目」「社会人3年目」を振り返りたいと思う。

今この導入文を書き始めたのが、2020年10月19日の21:56。自己整理として焦らず、ゆるりと書いていく予定だが、いつ終わるのかは分からない。明日か、1週間後か、1ヶ月後か

...

さすがに1年後とかはないかな。振り返ってる間に、また新しい年齢を迎えてしまう苦笑

ぐだぐだ言っていないで、早速書き進めていこう。

20代の振り返り:社会人2年目(アプリ事業)

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2年目、正しく1年目が終わる間近の2014年1月から、新しいミッションをいただいた。私と、もう一人同期の女の子に渡されたミッション、それは...

新規事業としてアプリの立ち上げ。

「おお~、オモシロそ~」「早くに立ち上げ任されるなんてすごいね~」なんて言われそうなものですが(確かに最初は私も思っていたが)、内容がものすんごかった。

・社長直下
・半年以内の黒字化
・社内リソースは使わない(質問はどんどんしよう)
・コストはいくら使いたいか教えて(基本ただでできることを考えよう)

これだけ見ると、やっぱオモシロそうじゃんと思われるかもしれないが、社内リソースなくアプリを立ち上げるってどういうこと?と頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。

外注先を安く探して実行しなさいということだったのかもしれないが、当時の私の頭の中では、社内にエンジニアがいるのに探さなきゃいけないとはどういうことか。外注先なんて当たり前に知り合いもいないわ。という感じ。

何から手を付けていいかわからない上に、当時の私は社内に敵も作りやすいタイプでもあり(完全に調子乗ってる若僧)、質問するにも誰に質問すれば良いのか分からない状態。

何もしないわけにもいかない。明日から毎日代表への報告会がある。やらねば。part1で書いた事業責任者に任命していただいた経験に続き、また考える暇のないミッションがやってきた。

このときの悩みと言えば、「コミュニケーションが取れない」に尽きる。

毎日考えては、考えたことを代表に報告するのだが、気持ちの言い回答はもらえない。言われたことを考え、ドキュメントにまとめたつもりが、伝わらない。

こんな日々が2ヶ月以上続いた。やり取りが続く中で、何を求められているか分からないと、投げやりになってきていたのを今でも覚えている。

2ヶ月も何をやっているんだ...。そんな状態。

そんなある日、パートナー会社からプロダクトの方向性は決まったのかを尋ねられ現状をありのまま伝えた。その結果、現状に見かねたパートナー会社が、代わりに方向性をプレゼンしてくれることになった。

そのプレゼンが、とても、奇妙な光景だった。話していることは、きっと同じ。だが伝わっている。納得を得ている。

パートナー会社がやったことは

・ドキュメントをパワーポイントにまとめ
・特に主張すべきポイントをUIではなく、UXに絞っていた
 →当時、UIやUXの違いにそこまで詳しく理解していたわけではないが、そんな気がした。

単調なドキュメントでまとめていた内容を、要点を絞り整理し、伝えていたのだが、私としては「こんなことで伝わるようになるのか?!」と驚きだった。

よくある話で、受け手と、話し手の目線をすり合わせるというのがあるが、私のすり合っていなかったポイントを会話の中ですり合わせながら、要点に誘導していたのも新鮮に覚えている。

文章の整理方法や、資料の作り方にこだわりを持つようになったのは、この頃からだったと思う。

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今でこそ理解できるが、現場は上司レイヤーが欲しいと思っている情報を伝えているつもりが、ずれている。なんてことがよくある。頻繁にある。

確かにそうだ。相手が欲しそうな情報をエスパーして報告するのだが、エスパーして100%要望通りになることなんてあり得ない。

「面倒臭い」「聞くと怒られるかもしれない」という感情から、聞くことをためらってしまうことがよくあるように思うが、結果として事業の進捗はどんどん遅くなり、自分自身のパフォーマンス(気持ち)はどんどん低下していく。

コミュニケーションが取れていないと感じたとき、できればそうなる前に、何が重要なポイントなのかを聞く・すり合わせるということを、新人たちには心がけて欲しい。

と思えるようになった出来事であった。

20代の振り返り:社会人3年目(スマホ事業)

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2年目の終わりから3年目頃は、既存事業のスマホを伸ばすための責任者として役割をいただいた。今でこそ本当に感謝しているが。この頃がまた強烈で、刺激的な毎日だった。

当時の上司からのフィードバックと言えば、

・で?
・どう?
・だから?
・なんで?
・それで?
・どうして?

と「ダ行」の連続。

考えたこと、やることに対する否定は0(ゼロ)だったが、何をやるか不明瞭なときにはすべて↑の言葉が返ってきた。

自分でも不明瞭だと分かって報告しているから、特に染みるのであった。寝れない夜、微熱が続く日々が1ヶ月程続いた。

「ダ行」の話を本章でしたいわけではないのだが、ダ行しか返ってこない日々が続き、自分の動きが↓のように変わってきた。

・社内マーケ → 自分で営業

当時の私は社内に閉じこもってメディア開発を行っていたのだが、このままではイケないと思い、いつからか社外とコミュニケーションばかりを取るようになったのだ。

今だと冷静に振り返れるが、「社内にいても、画期的で、斬新なアイデアは生まれない」と諦めが付いたのだろう。

外部とコミュニケーションを取りたい、ではなく、取らなくてはいけないに自然と考えが変わった。

またこのとき良かったのが、今までと違う人とコミュニケーションを取らないと何も変わらない。まで思えたことだろう。

この考えが、自然と私の意識・足を社内から社外に向けるきっかけとなった。

最終的には自ら持ってきた案件で、6ヶ月(だったかな?)連続での目標達成につながるのだが、このときに学んだことがもう一つある。

それは...

誰も私をマーケティング担当という役割を渡していないのに、勝手にマーケティング担当を思い込み、社内に閉じこもっていたこと。

これは今の若手や、新米マネージャーを見ているとあるあるのように思うが、自分の役割を狭い世界に勝手に閉じ込めてしまうのだ。ある種の妄想である。

私は恵まれた上司からのきついフィードバックによって、気づくことができたが、恐らく多くの人はこの記事を見て、自分を変化させられないだろう。

私は「ダ行」のコミュニケーションによって、本来の自分のミッションを常に思い出させてもらう環境にあったのだ。そしてそれは一度ではなく、繰り返し行われていた。

今の立場になって私も「ダ行」のコミュニケーションを行うのだが、あからさまに聞き手のモチベーションが落ちていくのが見て取れる。聞き手のモチベーションの低下に恐怖し、言い方が中途半端になってしまう。

一度極限状態にまで陥ることで、本来のミッションや、自ら行動に制限を掛けていたことに気づいたのだが、私は本人が気づく(変わる)一歩手前で、恐れて「ダ行」を止めてしまっているのだ。

キツさが全てではないと分かっているが、口ではなく、本能で変化しなくてはいけないと思えるかが、私の成長には重要だと思う出来事であった。

この経験を今後の人材育成に"どう"活かしていくは、私の今後の腕の見せ所だろう。

===

この時の私を支えてくれた大事なメンバーが1人いる。その子はアルバイトで入社し、数年の時を経て社員登用となる。

私がやりたいと心から思えたことを朝晩関係なく一緒にやってくれた。私が情熱高くいればいるだけ、その子もやる気を出してくれていた。

今では違う会社でそれぞれの道を歩んでいるが、生涯忘れられないメンバーだろう。

part3で書きたいことの整理

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次は初めて子会社出向をするきっかけとなった行動について振り返ろうと思う。

当時のビジネスモデル、凝り固まった事業運営に飽きてきた頃で、お金を稼ぐって面白いと思えるようになった経験である。

それでは皆さん、また次回。

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