見出し画像

「明治から令和へのファミリーヒストリー」裏話② ~牡丹江小学校(満州)の入学式~そして引き揚げまでの悲劇。

ビックリの写真を見つけたので見て欲しい。
まずカバー写真にも載せたこの写真は、私の父・早川元夫さんの牡丹江小学校(満州)の入学式の写真だ。昭和20年4月。父のアルバムにあった。

画像18

牡丹江小学校


そこでネットで検索してみたところ、この2枚の写真が出てきた。「牡丹江日本人小学校」と書いてあった。カラーのほうは古本屋ネットショップで500円で売っていたので即注文した。

画像2


ダウンロード


この入学式写真の4カ月後の8月8日にはロシアが侵攻してきた。(牡丹江はロシア国境に近い。)だからみんな逃げたのだ。
命からがら逃げて逃げて、たどり着いたところで難民生活を送り、待って待って待ちくたびれてやっとのことで引き揚げ船に乗り、日本に着いたときには父は小3になっていた。なので父は小1~小3はほとんど学校に行っていない。

多くの人々が凍死、餓死、銃撃されて死んだり、集団自決したり、子どもを亡くして気がふれて自殺したりと、私は幼い頃から祖母にリアルに聞いて育った。

満州 家族写真1

満州 家族写真2

満州 寒い


さて、引き揚げ船は博多港に到着し、そこで何日か止められてDDTの白い粉を頭からふりかけられた。女性は強姦されぬよう頭を坊主にし、誰もがボロを着てズタ袋を斜めがけにしてリュックを背負っていた。帰る故郷がある人たちはその後故郷を目指した。

満洲引揚者


父は山口県熊毛郡麻郷村八海(現在の田布施町)に祖父母がいたから、そこまで移動した。満州生まれの父にとっては生まれてはじめて見る日本だった。

故郷にたどり着いて小学校に編入したら、「満州帰り」といじめられそうになり、それを助けてくれたのは「租敷のせーやん」というガキ大将だった。そして父とせーやんは仲良くなった。村一番のガキ大将が親友になったので、その後はイジメられず、ワンパクに楽しく育ったと言っていた。父は、その時の最初の先生の名前も覚えている。家本先生という。何としてでも逃げのびて生き抜くのに忙しかったので、勉強はまったく出来なくて完全に遅れていたのに、家本先生がいたから追いつけたし学校に馴染めたという。

4年生になったら副級長になれたということが、のちのちまで父と祖母の自慢だった。家本先生の親身なご指導のおかげだと言っていた。
「租敷のせーやん」は昨年81歳で亡くなった。生涯の親友だった。

父と親友

父と親友2

村祭り

スイカ割り


さて、次の写真は私の両親だ。家が隣同士だったので生まれて直後からの親友だ。逃げるときも一緒に逃げた。終戦時、父は7歳、母は4歳だった。

父と母 2

父と母1

画像11

画像13


冒頭の牡丹江小学校の入学式の写真を見て思うのは、こんなに表情も鮮明な子どもたち、親御さんたち、先生。このあと想像を絶するほど壮絶な逃避行と難民生活を、何名が生き延びることが出来ただろう。親子離れ離れになったり、逃げ遅れて中国に残され苦労した人たちも多かったと聞いた。それを思うと涙が出てくる。

私の祖父母は亡くなるまで私に何度も言い続けた。「中国の人たちが助けてくれたから、生き延びることが出来たのだ。今生きていられるのは中国の人たちのおかげだよ。絶対に中国に足を向けて寝たらいけないよ」

祖父母は生涯、生き延びたことへの感謝を忘れなかった。

画像16


昭和56年からやっと中国残留孤児と残留婦人の家族探しがはじまった頃、私は中学生だったが、祖父母が新聞に虫眼鏡をあてて目を皿のようにして知る者の名前を探している姿をよく覚えている。毎日毎日、涙をぬぐいながら祖父母は新聞に記載された家族探しの人々の名前を何度も何度も見ていた。

この歴史を、決して忘れずに語り継いでいきたい。

画像17


★8/29(土)に「明治から令和へのファミリヒストリー」というトークショーを行うのだが、満州についてもいろんなエピソードをお話しするので、興味ある方はぜひ聞きに来ていただきたい。とてもたくさん写真があるので、お早めに入っていただきスライドショーを見ていただけると嬉しいです。当時の時代を懸命に生きた人々の想いが伝わってくると幸いです。

⭐️トークショー申込みはこちらから👉
https://haronoya.com/shop/17264

ZOOMでトークショー!
★早川千晶のひとり語りVOL.4★

~アメリカ開拓移民、満州、そしてアフリカへ~
明治から令和へのファミリーヒストリー

●日時:2020/8/29(土) 20:30より開始
(20:00よりスライドショーを上映しています)
●参加費:1,000円


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?