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『古典と日本人』の感想 短歌・近代日本文学の成り立ち

『古典と日本人』

今月の11日に買ってから集中的に読んでる。
第四章『古典的公共圏の展開』と第六章『古典の末路』で南北朝・室町時代と近代日本の和歌や古典学について学んだ。

一般的に学校教育で学ぶ和歌や古典(源氏物語など)といえば平安時代のものばかりだけど、平安時代以降も江戸時代までずっと和歌や古典は繁栄してきた。本書はそう言う。
読み始めた頃はそのことにちょっと半信半疑だったけど、読み進めていけばいくほどそういう事実があったことに納得できる。

和歌を嗜むことや古典を知っていることは政治の舞台に上がるための前提条件であったようで、それらの素養を身につけていない者は歯牙にもかけられなかったようだ。
鎌倉時代以降は公家・武家・寺社の三者が政治権力に携わっていたけれど、その中で和歌や古典の素養を持たぬ者はいなかった。
和歌の勅撰集を作ることや古典の注釈書を作ることは政府の権力を誇示するものでもあったという。そういった権威主張のための書物編纂は、権力の担い手が特に不安定だった南北朝期に面白い動きがあったのが興味深い。

明治維新期の近代改革によって和歌の文化は断絶することになるのだけど、日本の文化史においてやっぱり維新期の以前と以後で何がどう変わったかを知っておくのはとても大事なことだなと再認識した。
それは年初に読んだ『低空飛行』を読んで感じたことだったけど、その次に読み始めたこの本でもそれを実感できたのは大きい。

和歌の断絶が起きた主な理由について特に挙げておきたいことが一つある。

和歌は長い歴史の中で確立されてきたテーマや語彙・表現を借りて表現するのが主流だった。個々人のオリジナリティを発揮するというよりも、「どれだけ前例を知っているか」が大切な文化であり、表現できるテーマにはかなり限りがあった。恋愛歌・風景描写・私的な思い出の述懐などが本筋で、それ以外のことは読まれていなかった。モンゴルが襲来した鎌倉時代中期にあっても、元寇のことは一切読まれず、和歌の世界は風雅な雰囲気に閉ざされていたほどの徹底ぶりだったらしい。

西洋化・近代化を迫られた日本国内にあって、その文化形態のままでは西洋の詩・文学に対抗できないと考えたのが正岡子規だった。彼は和歌の決まりきった歌詞や修辞・技巧を嫌った。

彼は、文学で最も大事なのは「自分が美しいと思ったものを最も的確に表現できるように工夫すること」だと考えていた。和歌の世界で最も尊ばれていた書物は『古今和歌集』であったが、彼はそれを批判して自身の思想に最も近しい『万葉集』を持ち上げて、古典詩歌の変革を狙った。

その結果、和歌は短歌へと形態が変化した(同時に俳諧も俳句へと変わったようだ)。
短歌で有名な近代作家と言えば石川啄木や与謝野晶子が挙げられるが、和歌で詠まれる心情描写よりももっと個人の実情を読まれているように感じられる表現が増えていったのだ。

正岡子規が強く意識した近代の西洋文学といえば、その特徴は「リアリズム」だった。神話的な超常現象が登場せず、登場人物の苦悩が描かれ、時に深いアイロニーやニヒリズムを湛えることもある作風である。近代西洋美術でも、宗教性を廃し、目で見たままの姿をキャンバス上に再現しようとする写実性と真実性を追求したリアリズム志向が主流であった(そのアンチテーゼとなったのが印象派)ように、「真実」を明らかにしようとする姿勢は近代西洋にとって貫くべき思想だったのだろう。
その思想は日本の近代文学にも影響を与えた。夏目漱石はイギリス文学に、二葉亭四迷はロシア文学に、森鴎外はドイツ文学に出会い個々人の作風を確立していった。

個人的に、恩師の影響で高校時代から慣れ親しんでいた日本近代文学の成り立ちについて知らなかったことを知れたのはとても嬉しかった。明治期の文学の成り立ちを把握できれば、大正期・昭和期の流れも理解しやすくなるはずだ。

夏目漱石は異国文化を知ったことで酷い精神衰弱に陥ったのは有名だけど、社会背景を知るとその心情のリアリティが増す。異国文化が世を席巻していて日本文化が忘れ去られている現代にあって、彼の心情に近しいものが私の中にもあるかもしれない、とふと思った。

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