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【日記】「大竹伸朗展」・ストレッチと些細なクリエイティビティ ほか

 今まで日記記事に日付の記入をしていなかったのだが、今日から簡単にでも見出し画像に添えることにした。記事そのものに投稿日時が記録されるからわざわざ含めなくてもいいだろう、と思っていたんだけど、自身のページトップからは「○日前」「○週間前」といった大雑把な投稿時期しか表示されないため、noteを日記として機能させたいならば自発的に日付を記入せねばならないのだった。一ヶ月も日記やってきて、気付くのが遅すぎる。

 今日は東京国立近代美術館へ訪れ、「大竹伸朗展」と「MOMATコレクション展」の二つを観覧した。天気が良く、広い壕があり都内でも比較的見晴らしのいい竹橋周辺を歩くのは気持ちがよかった。

朝の活動

 今週から11月振りに再開した早寝早起きの習慣、今日は休日ながら初めて平日と同じ4:30に起床することができた日。仕事がない日こそ習慣を守るのが大切で、これがあるから習慣を習慣たらしめることができるのだと思う。

ストレッチと些細なクリエイティビティ

 最近のストレッチは、今まで重点的に取り組んで来なかった肩部・脊椎・股関節の伸展に取り組んでいる。同時に、床を使わずに可能な限り立位でストレッチを行うようにしており、バランス感覚や四肢の支持力も並行して鍛えられるようなポーズを組み合わせてストレッチをするよう心がけている。特に決まったメニューをこなすわけでもなく、その場その場で思いついたポーズや、偶然生まれた体勢で全身を隈なくほぐし筋力を活性化させる。

 身体は日常の中で頻発する動作に順応していく性質がある。逆に、使わない機能は徐々に衰えさせていく。トレーニングが特定のストレッチ種目に偏ると、多様で複雑な身体の使い方を求められる舞踊では不利に陥りやすくなってしまう。そのため、できる限り毎日異なった運動をすることで身体に流動性を持たせておくようにするのは大切だ。

 ただ、それは毎日異なった動きをする一番の理由ではない。もっと単純に、新しい動きを生み出していくのが楽しいから決まったストレッチルーティンを作らないのだ。ストレッチには、どの動きがどの部位を伸ばしてくれるのかある程度型がある。初めのうちはそういった型に倣うだけで身体の機能を伸ばしていけるものだが、ある程度習熟してくると型にはまらない姿勢が取れるようになってくる。

 そういった新しい姿勢は、肩に慣れた身体にとっては新鮮で、とても健康的な刺激をもたらしてくれる。それだけでなく、受動的に習った型から少しはみ出すアイデアを自身の内から創発する行為は立派な創作活動の一つでもある。「創作」「クリエイター」という類の単語は、芸術と結びついて美句として扱われがちで、「他者に向けた自己表現」をすることに対してのみ扱われる雰囲気がある。しかし、本来は自分が自分のために行う閉じた知的生産行為にも当てはめることのできる語なのではないかと思う。

 現に海外のダンスコミュニティでは、どんなに些細なものであれ、自力で考え出した動きや表現は全て「クリエイティビティ」を発揮したものとして称賛される傾向にある。それが他者に開かれたものであろうとなかろうと一切関係なく、自身の中にある熱意を十分にたぎらせ、独自のアイデアを作り出していくことにエネルギーを注ぐ。そういった微量で些細なクリエイティビティが集積したのちに、大きな成果が現れてくるものなのではないだろうか?

 対象について習熟すればするほど、自身のクリエイティビティを発揮する余地が広がっていく。逆に言えば、クリエイティビティを満足に発揮するためには対象に関するそれなりの練度が必要になる。創作者が己の技術を磨く理由なんて、それ一つだけしかないかもしれない。

 芸術鑑賞をしていると、そういった情熱のこもった営みをしている情景を思わず想像してしまう瞬間がある。そこにこそ、芸術鑑賞の一番の楽しみが宿っていると私は思う。製作者の対象物に向けるエネルギーの量が膨大であればあるほど気持ちよく感じられる。そういった情熱は資本主義社会にとっては無為だとされる類のものばかりだが、豊かな精神活動こそ人間の本質であって、市場価値を追求しようとする社会通念こそが欺瞞であると思う。

「大竹伸朗展」

 書店を散策しているときに大竹伸朗氏の本を目にすることがあって、例えばちくま文庫の『見えない音、聴こえない絵』は内容が面白かったので買おうか迷ったが、著者の芸術活動に疎かったので買い控えたことがあった。今回の展覧会を観られたことで大竹伸朗氏の人物像がある程度把握できたので、これからは著書を楽しんで読むことができそうだ。それが収穫の一つ。

 本展は7つのセクションから構成されており、各セクションごとに設定されたテーマに沿う作品が集積されており、各々の制作年代は一定ではなかった。セクションの解説を除いて一才のキャプションが無かったことも、作者と鑑賞者の間の静謐なやり取りを担保してくれていた。創作活動初期から現在に至るまで、ある程度一貫したテーマで作品が作り続けられてきており、どの時期の製作物にもムラがないという、創作活動に対する氏の熱量の高さを強く感じずにはいられなかった。

 用いる素材や表現方式には共感できるところもあればできない部分もあった。しかしそれは、多様な手法を駆使して膨大な作品数を生み出してきた氏に対する印象としては一般的なもので、そうであるからこそ様々な鑑賞者から好意的に受け止められるのだろう。早くから美術界で評価されていた氏だが、平日昼にも関わらず室内のあちこちで人だかりができるほどの盛況ぶりを見せるなど、懐の広い作品群は数多の人の心を掴んでいるようだった。

 芸術家の特徴は、その者の来歴と時代背景によって形成される。芸術家の人物像を解析しようとする場合には、来歴に目が向けられることが多いが、それ以上に重要なのは、当時の社会情勢や起こっていた芸術運動を始めとする時代背景を把握することにあるのではないかと思う。

 氏の芸術に対する考え方について、首を勢いよく縦に振りたくなるような観点が多いのは、氏がデビューした1980年代と現代では芸術家が社会に対して抱く問題意識に共通する部分が多いのだと思う。氏は消費社会の中で大量に生み出しされた廃棄物を眼差し、それらを再利用することで、製品としての価値を失ったものたちに新たな役割を与えてきた。たった一つあるだけではただの無機物でしかない廃材は、集合することで有機的な構造物に生まれ変わる。人間としての五感や直観・インターネットではなく現体験を重視する彼の価値観がそこには宿っており、それは間違いなく今日でも通底する問題意識だ。テーマや主張を排した制作が氏の本懐とするところのようなのだが、それこそが高い強度を持つ一つのテーマとして成立してしまっているのではないかと思う。

 コラージュや抽象画、音を多角的に用いる氏の表現手法は、1980年代において鮮烈な印象を与えたに違いない。芸術と社会に対する確かな信念だけでなく、制作物の持つ存在感や圧倒的な物量に支えられた氏の知的生産の痕跡は、現代において更なる真実味を持って人々の前に迫ってきているように感じた。

 本展は、並々ならぬ情熱を注がれた巨大な仕事が敷き詰められており、氏の思想を度外視してレジャーとして鑑賞することもできてしまう、非常にダイナミックな内容だった。一人の駆け出し芸術家として、背中を強く後押しされたような気分になった。

 入り口で出迎えてくれた宇和島駅のオブジェが、帰り際には「今日を忘れるな」と、見送りと忠告をしていてくれたような気がした。一生涯をかけてエネルギーを注ぎ続ける覚悟をもって成された仕事を観ると、本当に力が湧いてくる。今後、大竹伸朗氏が作り出す仕事を目撃していけることが嬉しい。


「MOMATコレクション」展

 すごくよかった。展示作品が切り替わるごとに毎回見に行きたいと思うくらい内容が充実していて、近代美術の辿ってきた姿の一端を把握できたことが嬉しかった。正直大竹伸朗展のおまけ感覚で入ってしまったので、美術館を出た頃には大竹伸朗展以上に時間を掛けて観覧していたことに気づいた時は驚いた。

 芸術家の特徴を形作る要素は来歴と時代背景の2つがあるということは先述したが、芸術家がどんな表現手法を用いるのか、という点移管しては時代背景に依存する部分が非常に大きいと思う。海外とのやりとりが活発になり、情報伝達速度も近世から飛躍的に向上し始めた近代においては、芸術運動にとてつもなく大きなうねりが渦巻いていたことだろうと思う。下記は1900年代の作品だが、時代が現代に近づいてくるにつれ、恐慌や戦争といった社会情勢に併合された美術表現が数を増してくる。その辺りの表現様式が目立って見えるのは、それらの社会問題が今私たちが生きる現代にも身近で生々しく存在し続けるものだからなのか?

 新たな表現方法を切望する団体が多く現れるのも近現代の芸術世界の特徴なのだろうか。その環の中にいる当事者の一人として、決して他人事にはできない物事が多いと感じた。芸術史に堆く積み上がる屍の一つとして身を埋める覚悟はできている。著名になろうとならなかろうと、自身が連綿と続く歴史の一部である自覚は持ち続け、過去にも未来にも意味を繋ぎ続けられる活動を送っていきたい。決してただの自己表現に己の創作を終始させることなく。

ChatGPTでNM法

 昨年11月にAIの勉強にハマって、それ以降関連情報をこまめにチェックするようにしている。今日気になったのは読書猿氏が発信していたChatGPTをNM法に活用する方法で、アイデアの源泉を無数に生み出せるというものだった。それなりにツリー数の多い投稿だったのでここでは端折って頭と終わりだけを載せてしまったけど、ツリー内に記載されている実際の利用過程の様子は本当に革命的に感じる。

 今、他にやりたいことで手一杯でChatGPTのことを知るための時間を割けられないんだけど、自分の作業を易化してくれる利用法があるかもしれないので今後もこまめに使い方のアイデアを収集していく。

今日の読書

『白百』

 「○○四 雪」。

 幼少から長野の雪国で育った身だが、どんなに生活に不便になろうとも、一夜にして世界が一変したかのような光景をもたらしてくれる雪が好きで好きで仕方がなかった。それは今でもそうで、どこまで文明が発達しても人間は自然に折り合いをつけて順応していくしかないという、自然と人間の不可逆的な力関係を思い出させてくれる雪のことを好ましく思っている。

 雪はなぜ白いのか、雪は何故あのような結晶体をしているのか。雪の結晶が、一粒一粒異なる形状をしており、何一つ同じものはないであろうことを発見したのは、科学のもたらした大きな功績のひとつだと思っている。

『夜と霧』

 81ページまで進んだ。今週中には読み終わるだろう。

 今日読んだ節の中には、醜悪な環境下にあって、却って精神的に成熟する人が少なからずいるという印象的な描写が含まれていた。それは、愛を知ることであり、自然の美しさを知ることであり、芸術のもたらす作用を実感することだった。

 その節に触れて、もはや何の機会で覚えたのかは忘れてしまったが、その内容だけは明確に心に残っている、「何を収奪されようとも、人の精神世界だけは何人も犯し得ない」という文言を思い出させられた。

 人間を人間たらしめている根拠は、その豊かな精神世界を築き上げることのできる能力を指すのだろう。その精神世界に由来する人の高潔さは、生を輝かせるだけでなく、死をも偉大にするのではないか。そうであるならば、高潔な精神世界を築こうと努力することを自身の使命の一つとして数え上げなければいけない。

 極限の環境下にあって、最後に人の身を守るものがそういった精神の働きであるということには感動せずにはいられない。そのような精神を持ちながら生涯を終える人がいるとして、どうしてそこに悲しみを見出せよう?涙を流すとしても、高潔な精神を保ちながら息絶える人を目撃したことに対する誉れと、その者を称える心情からあむれてくる者ではないのか。「祈り 藤原新也展」で目撃した死生観に対して抱いた尊い気持ちの根拠はここにあるのではないかと思った。

 少なからず、私が死ぬときには、惜しむ気持ちよりも高潔な魂が天に昇ったことに対する祝福心から涙を流してもらえるようになりたい。日頃あれだけ日本文化だとのたまっておいて、こんな天国じみたことを言ってしまうのは笑えるな。

今日買った本

 それ単体が作品として成立するように構築されているという「大竹伸朗展」の図録は、展覧会に向かう前から買うことを決めていた。

 あとの2冊はAmazonで注文したもの。乗越たかお氏の書籍はこれで全て手に入れたので、『夜と霧』を読み終えたらまとめて通読しようと思う。楽しみ。

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