リモートワーク革命の本質は、「Where」というより「Who」じゃない?という話
転職し、即リモート化した職場に投入された私が、1年半の新生活(「新」型コロナ「生活」の略)で感じたことを、忘れる前に書いとこうという企画
必ずしも「場所(だけ)の問題」ではないと思う、リモートワークについて
建築系の会社の事務職サラリーマンをやってるのですが、勤め先では〈在宅ベース+ノーコアフレックス〉が導入されています。世間的にはもう珍しくもなんともないけど、私が身を置いてる業界(建設業)的には、コレを制度化・導入できている、というのは多分、けっこうすごいと思う、んです。
「オフィスに来なくても、家でもできる仕事ってのもあるよね~?」ってことで、会社が一般的な業務フローについて実態調査を行い、「この工程はどっちかっていうと出社が適する」「この工程は在宅でも十分」ってな感じで、指針的なものを(社内的に)示している、ということで。
まあ、コロナ状況がだいぶ悪化している今、悠長なことも言ってられなくなりましたが、ある時点ではそんな感じで、指針に基づき、各社員が比較的自由に出社するか在宅するかを選択できていたんですよね。
正直あまり私の業務には関係ないんですけどね。私が出社してないと、私のユニットはマジ超在席者不在になるんで、基本出社しています。
とはいえ、まあなんか在宅にしようと思えばできるんだよな~みたいなところで生み出される心の余裕みたいなのはあるから、一概に「来るな」「来い」とは言わず、出社・在宅のハイブリッド+自己選択性が重要という方針は、コロナが収束しても、そのままにしておいて欲しい。突如、従前の100%出社に戻そうものなら、けっこうモメんじゃね?と思う。
家内制手工業の代表的ビジュアル、『尾張名所図会』(国立国会図書館)
…近現代社会史とは、長い時間をかけて、「働く」機能が家庭(家)から家庭の外へ、アウトソーシングされ、組織立っていった歴史だと思うんです。
家内制手工業みたいなヤツ ⇒ 通って勤める工場が発明された、的な。オフィスも、元は社主の自宅の一角とかだったんじゃないのか? と。実際、第一国立銀行(1873年)は、渋沢栄一の私邸(日本橋兜町)の敷地内に創設されていたそうなんですね。ヤバいよね。その後、経済と効率を求めてアウトソーシングされて、集積されて、「オフィス街」ができてったんだろう、と。
日本最初期のオフィスビル「三菱一号館」(丸の内、1890年)。各テナントごとに玄関が設けられていた…という点では、住宅の延長感がある。(「写真展『東京の半世紀』」新聞通信調査会)
しかし、昨今の新型コロナは、完成されしこの社会(=都市)構造を思いの外、簡単にぶっ壊してしまった。迅速なリモート導入で、オフィス街は解体されるわ、「仕事」は150年ぶりくらいに自宅に戻ってくるわという…。
「日本の企業って、こんな急速に変化するポテンシャルあったの!」とみんなびっくりしたと思うんですね。逆にこれは、「どんだけ日本の都市・社会構造って脆弱だったんだよ」と言い換えられるかもしれないけど。まあそういう感じよね。多分ね。
「会社」=「職『場』」=場所的な縛り、に終止符を打ってしまったということで、「リモートワーク革命」は、一般的に "Where"の問題 と認識されている気がするけど、私の個人的な肌感としては、
「必ずしも、同僚が仕事中の人間関係の最上位ではなくなってしまった」
という、"With Who"が重要なんじゃないの?って思ったりするんですよね。このエントリではその辺の話をしたいな~と思ってるんですけど。
…私は横浜の客船でコロナが~と言っていた2020年3月に現職にジョブチェンしたのですが、その直後に感染爆発して即リモートOJTになった、という。
(OJTでも上司の指導は超手厚く、その点心底感謝です。)
とはいえ、「何が分からないかが分からない」から、レファレンスを求めて出社するしかない。引き出しを開ければ過去の稟議書類から何か分かるはずだ。出社しても人がいないから、カルチャーフィットもクソもない。カルチャーすら稟議書類から読み解いていくしかない。
年次すら知らない隣のユニットの社員とメールする。めちゃめちゃ年上だと思ってたら、全然年下だった。この人がこの人だろうという確証は、Teamsのちっさいアイコンの顔写真にしか存在しない。字面だけだとテンションが読めないので、文面の堅さを消すために「!」を多用する…。
仕事中の「社外とのコミュニケーション」がめちゃくちゃ濃密になってしまった
…それから1年半の歳月が流れ、「今どうよ?」と言われると、正直マジで全然わからん。稀に対面で打ち合わせなどしようものなら、毎回「あ、私は2020年からこちらでお世話になっている~」っていう感じ。
会社の人員規模とか、社員が「デビューする場」が整備されてるか、とか、そういうところにも大いに依存する話ではある。しかし、私的には会社への帰属意識を持つのが結構辛いというのがぶっちゃけた感想ではある。
「ハァ?帰属意識とかwwそんなもんいらんやろ21世紀やぞ?」と言われそうだけど、会社というシステムで繰り広げられるゲームに参加する上で「会社への揺るぎなき帰属意識」があることを前提としてる企業、ってのがあるんだなと思うのよ、やっぱり。要は超日本型大企業(の体裁)を取っている企業ということなんだけど。
…なんやかんや、煮え切らない感じで過ごしてきて分かったのは、
「社外の人との方が、濃密なコミュニケーションを取れてたくね?」
ということ。
この1年半、基本的に仕事してる間も、
①パートナー(同居)
②最近何してる~とかを共有する前職時代の同期
③他業種に進んだ大学時代の友人グループ
④Podcastのパーソナリティ仲間
⑤プライベートについて相談し合う友達
⑥同業他社に勤める身内
との対話やLINEやメッセンジャーは常時走っていたが、みんな在宅勤務メインになり、コミュニケーションの頻度(濃度)が段違いに高まった。
業務時間中に社外から電話が来て「ちょっとXX(前職の知識)を教えて」ということもあったし、「今夜録るPodcastのネタだけどさ~」と、メッセで編集会議が始まることもある。なんかもう、仕事中に会社の人としか連絡とらない人って普通にすげえなというレベルになっちゃった。
他方、会社は「本日は失礼します」がTeamsに投稿されたら、もうその人との今日の関係は終了~みたいな感じで(事務職とは、概してそういう感じなんだなぁと理解したが)いわばパートみたいな様相を呈していた。
(当初、私はその状況を『これがホワイトな職場…ッ!』と感動していたが、「定時に上がってたら全然終わらんね?」という事実に気付き、ウィークリー労働輪廻にきっちりハマっていった。世間は甘くない。)
相対化され、絶対的なものではなくなってしまう会社
…で、また別の話になるけど、マジで今、世の中のみんなが「会社(勤め先)が、『何か』と、すげえ相対化されている状態」にあると思う。『何か』ってのは、在宅勤務の中でみんなが「発見してしまった」いろいろなこと。例えば、
◆コンビニ弁当を買っていたが「平日に昼飯をつくる」ことを発見した人。
◆なんなら日中のうちに「晩飯を仕込んでおく」ことを発見した人。
◆メールのやり取りの合間に、植木の世話ができることを発見した人。
とか、
◆(これまでパートナーに任せてたけど)子どもを保育園に迎えに行くとかして「平日の夕方に子どもと向き合う」ことを発見した人。
◆職場との往復だった時間を使えば、小説が書けることを発見した人。
…みたいな。そういう「日常の些細なこと」も含め、そうか…俺にはこういう生活もあったのだな…という『発見』をした人が大勢いると思うのよね。
激変する仕事環境下で「焼き菓子沼」に嵌ったという映画監督・樋口真嗣氏。私も、この1年でクソいいオーブンを買ったので、超わかりみが深い。(ナタリー、21年2月)
つまり、急に「会社」が生活の主幹にならなくなってしまった、っていうことに、かえって悩んでいる人も多いんじゃないか、と思う。
これまで通りに仕事もしたい、だけどキッチリ●●もしたい、みたいな願望が急に現実性を帯び始めた、とでもいうのだろうか。どっちかしか取れないと思ってたから、「仕事」「会社」を取っていた。実際、別に忙しさは変わってなくても、なんか「自宅にいる」というだけで、プライベートに「手が付けられるようになってしまった」ゆえに、なんかどっちもとれるようになってしまった(っぽく感じられる)。あるいは、会社に常駐していない、というだけで「あの仕組みって実際何だったんだろ、自宅にいたら何も参照することねえし、意味あったのかなアレ…」ってなっちゃう、とかね。
一見、大したことない問題のようだが、「あれ、私いま、(どうでもいいことをぶっ割いて)『私』個人の生活を充足させたいと思ってるじゃん…」という内なる希求に気づいてしまった状態=『ご自愛モード』。
特に「仕事」「会社」を社員に優先させることで成り立ってきた会社の場合は、会社という枠組みが、クライシスを迎えているんじゃないか、と思う。
相対化の中で、「外の目」を獲得する社員
「会社と●●の相対化」は、日常生活(の豊かさ)の話だけではない。
さっき「仕事中に会社の人としか連絡とらない人ってすげえな」って話をしたけど、仕事中、大学OBのMessangerに、
「会社のWebサイトの更新を考えててさ~世間的にはこれって普通?」
みたいなことを投げ込む。すぐに、Web屋(ディレクター)の友人から「あのねえ、そもそも企業サイトの発注の考え方ってのは…」って、社内の人より俄然いいレスが返ってきちゃう。プロの意見だからしょうがない。
何が言いたいかというと、それぞれの人が、背後に「知識を持った人」(コンサル的な)を抱えてる状態って、実は結構あるじゃん(コロナ禍以前からの友人関係が基本だと思うけど)。でも今、会社への帰属意識があるのかないのかすらよく分からん、と。しかも社員同士以上に「ずっと繋がってる」状況下で、そういう状態が一層強化されてない?っていう。
作成:にゃんちあき(素材は「いらすとや」さんより借用)
さっきの「会社のWebサイトの更新を考えててさ~」は、社内で聞けば、ちゃんとベテラン社員の、かなり実態に即したコメントが返ってくると思う。しかしその答えからは、「う~ん、会社ってのは一般論からかけ離れているんだなぁ」ということに、まあまあな頻度で気付かされたりする。
「私が今向き合っていることは、会社を出るとあんま役に立たない」、俗に言う「弊社の常識、世間の非常識」(とまでは言わないが、)そういうことを薄々察しながら働くって、(私は過去に、極端に非常識な職場で働いていた経験があるから何とも思わないのだが)新卒者や若手には、けっこう辛いだろうなぁ。カルチャーフィットが要求される一方、比較文化的な目線も同時に持たされちゃってる。メタ思考で熱情を維持し続けないといけない。私は単純な人間だから、けっこう参っちゃうだろうな~と思って見ている。
結論らしき:ポスコロ社会の「会社」と「会社員」
だから何だっけ…? あーそうそう、結論っぽいことを言うと、私は「リモート世代」に結構期待してて、彼らは(所属はしてるけど)会社という枠をガン無視して「けど世の中ではこうらしいっすよ?」「これって本質的に意味あるんすか?」てな具合で、社外から一般論を引っ張ってこれるポテンシャルに満ち溢れているのでは? と思ってんのよね。
なんだろうなぁ、(当社の話ではないが)こういう時代だからこそ、今いちど企業カルチャーの隅々までの浸透を図りましょう! って感じで、水がピューピュー漏れまくっているダムを直すように土塁を積みまくっている会社はいっぱいありそうだな、とか思って、けどそういうのってあまり意味なさそうだな~、って思っちゃってる。
もう、社員を「社外に繋がるネットワークハブ」として扱う。彼らに繋がっている「外の目」をどんどん取り入れれば、「常に」会社と社会の乖離をなくすことができそうに思う。勝手に会社がアプデされる的な。ひいては健全経営にも繋がってくるのでは?的な。なんかもう、そういう開かれたナントカを目指さないとね、って感じなんじゃないの。危機感としてね。
えーなんかそうだな、ヒッピーよ。社内にヒッピーが増えていくと思った方がいい。ちょっと反体制的で、やらなきゃいけないことをやらないかもしれないけど、でもまあ、そういう社員を大事にした方がいいかもしれないよ。結果的に、そこからインターネットみたいな新しいカルチャーが生まれたりするかもしれないからね。ラブアンドピース。
(ゆ)
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