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ある街での出来事⑦【小説】

秋が深まり、日が落ちていくのがもうずいぶんと早くなっていた。

あれから彼とは何度かバイトが一緒になることがあったけれど、親しく話をすることはなかった。
他の大学の学園祭などが始まり、私は学校の友人と出かけて行ったりした。

もう確実に少しずつだが、彼のことは遠去かっていくようだった。
それに、私は彼のここのバイトの世界しか知らない。
彼の日常のほんの一握りの顔しか知らない。
そんなことを考えると、更に彼がまた遠い存在に思えた。


そんなある日のドーナツショップの休憩室では、何人かが集まって楽しそうに雑談していた。
その中に彼もいた。
どうやら彼の大学の学園祭で、バンド演奏を披露するらしい。
ベースギターの担当ということだった。

よかったら遊びに来てと話していたが、私は笑って話を聞いていることに徹した。
もうこのまま少しずつ、距離が遠退いていったほうがいいかもしれないと思っていたからだ。


彼と仲が良かった山口さんは、都合でここのバイトを少し前に辞めてしまったらしいので久しく会っていない。

私はドライブへ行った数日後、山口さんと一緒のシフトの時に、なぜドライブに誘ってもらえたのか聞いてみた。

「だって佐藤さん、家族とでしかドライブに行ったことないって言ってたから。
それを河野さんに話したら、話がまとまってたみたいね。」

彼女はいつものように、屈託のない笑顔で明るく話してくれた。
やはり少し予想していたとおり、彼女が河野さんにそのような話をしてくれたおかげで、あのドライブが実現できたようだった。

「本当にありがとうございました。
あの日私は本当に楽しくて、いい思い出になったんです。」

私は、心から彼女にお礼を伝えた。


冷たい風が吹く11月末のある日、ドーナツショップのミーティングというのがあるので、休憩室に17時に集まることになった。

2、3ヵ月に一度ぐらいの割合で、店長が反省点を話したり、店舗の売り上げ状況を報告をしたり、次のキャンペーンの説明をしたりするものだった。

狭い休憩室は集まった人達が入りきれなくなり、部屋の横の通路にイスがひとつ、ふたつと並んでいった。

ミーティングが始まった時刻に彼はいなかったが、しばらく経つと休憩室の窓から、通路に立っている姿が見えた。

30分ほどしてミーティングが終わり、みんなは雑談を始めた。
ほとんど全員揃っているので、ワイワイガヤガヤとなかなかすごい喧騒だ。
私は友人と壁際のテーブルに向かい、翌月の12月のスケジュールを書き込んでいた。

「悪いけど、一瞬でいいから貸して。」

と、後ろから手を差し延べたのは彼だった。

「はい、どうぞ。」

スケジュール表を彼に渡した。
久しぶりの会話だった。

あれから幾度かシフトが重なった時があっても、いつもお決まりの、

「おはようございます。」

「お疲れ様でした。」

の一辺倒だった。
私は何事もなかったように、そのままテーブルに向き直し、友人と話を続けた。

ふと気がつくと、テーブルの上にさっきのスケジュール表が置いてあった。

「あれ、もう戻ってきてる。」

「さっき河野さんが、『佐藤さん、ありがとう』って言ってたよ。」

「えっ、ほんと……?
知らなかった。」

振り向くと、彼はもういなかった。
私はどうしていいのか、わからなくなっていた。

ミーティングが始まる直前に、私の気持ちを知っている友人からそっと耳元で伝えられた。

「河野さん、今年いっぱいでバイト辞めるってよ。」

「うそー!……。」

私はミーティングの間、様々なことを考えた。
いくら彼が来年大学4年生で就職活動をするとしても、あまりにも突然の話過ぎると思った。
私が来年短大2年生になるので、同じくらいの時期に辞めることになるのかな、と漠然と思っていたのだ。

何か他に理由があるのだろうか?
とにかく、これからは滅多に会えなくなってしまうのは確かだ。
いや、今までだって、そんなに会えた日は多くはなかったというのに。

頭の中は真っ暗になった。
彼のことをあきらめてはいた。
いっそここのバイトも辞めたほうがいいのかも、と考えたこともあった。
それでもやっと仕事を覚えてこられたし、すぐに辞めようという決断はできなかった。
これからは、黙ってもう彼の姿を見ることさえも、できなくなるわけだ。
もう前途はないように思えた。


12月になり、クリスマスも間近になってきたある日、彼と一緒にバイトに入った。

彼は20時から来ることになっている。
私はシフトを確認して、今でさえも彼が来る時間が近づいてくると呼吸を整えていた。
予想外に早く、彼は19時20分頃に現れた。

セールスが忙しくて、10分休憩を取りそこなっていたので、ちょうど今から休憩に行こうと思っていたところだった。

「どうしよう。
今から休憩に行ったら、なんかわざとらしいね。」

「何言ってんの。
ほら、早く行っておいで!」

事情を知っている友人は急かす。
バイトのほとんどの人は、既に私が彼に気があるということを知っていた。

それは夏のドライブから帰って来て間もなく、すぐ噂になって広まったらしい。
店長も副店長もとうに承知で、度々彼のことを持ち出してはからかわれていた。

おそらく、その噂はすぐに彼の耳にも入ったことだろう。
はじめはすごく恥ずかしかったけれど、しばらく経つと慣れてしまったのか、それほど悪い思いはしなくなっていった。
わりとみんなが気を遣ってくれて、彼の情報を教えてくれたり応援してくれたことも多かった。
でも今は、あまり自分からは触れないように振る舞っている。

休憩に行くと、彼は既に制服に着替えて通路にモップをかけていた。

「おはようございます。」

私はペコッと頭を下げて、休憩室に入った。

休憩室には誰もいなかった。
彼のモップを動かす音だけが聞こえていた。
10分間の休憩時間が終わり、店頭に戻った。

「一番(休憩のこと)、頂きました。」

「何か話してきた?」

「ううん、何も。」

「ばかねー、話してくればいいのに。」

だいたい、いつもこんな調子だった。
ドライブの時にあんなに話をしたのが嘘のように思える。
やがて21時になり、仕事が終わる時間がきた。

木戸が開き、向こうから交代する男性3人が歩いて来た。
彼は一番後ろに並んでいる。
私は洗いかけのお皿を急いで洗っていた。
彼とすれ違う時、彼の声を聞いた。

「太ってないじゃない。」

彼のほうを見ると、少し真剣な表情に見えた。
私はすぐ察しがついた。
この前仁科さんに、最近ちょっと太って体重が増えてしまったと愚痴っていたからだ。

彼女はけっこうここのバイトは長いし、彼とよく話すほうだ。
以前は彼女に、彼のことを相談したこともあった。
私は急に顔が熱くなった。

「仁科さんが言ったんでしょ。」

私は彼の顔をまともに見れずに、その場を立ち去った。


23日はドーナツショップの忘年会があると聞いた。
私はこの前の嫌というほど傷を負った飲み会を思い浮かべた。
あんな思いをするなら、ちょっと行きたくないな……と考えてみたりした。
しかし、彼はもう今月末でここを辞めてしまうのだ、と考え直した。
どうやら送別会も兼ねているらしい。


当日、ドーナツショップの近くの居酒屋に大人数集まった。
年末らしく、お座敷の大きな部屋に鍋料理のコースが用意されていた。

佐伯さんは来ていない様子だった。
私はどうにか今日だけは、辛い思いをしなくてすみそうだと息をついた。

彼とは偶然、隣同士に座った。
彼は率先して鍋の中にたくさんの食材を丁寧に投入して、その姿はなかなか手慣れた様子でさまになっていた。

お座敷の座布団の上に座っていると、何度か組んでいる彼の足に自分の足が触れることがあり、その度に驚いてよけた。
彼は相変わらず、仲間達と楽しそうに騒いでいた。


二次会は、近くのカラオケ店に向かった。
コンクリートの変わった建物の造りと雰囲気で、店内に入ると、いくつかの部屋に別れていてそれぞれの部屋の装飾が違う。
各室、洞穴みたいで古びた面白いデザインだ。

一次会で帰った人達がいるので、集まった人数は7人ほどだった。
やや中ぐらいの大きさの部屋に案内されて、みんなで丸い大きなテーブルを囲んだ。
また偶然にも、私は彼の隣に座ることができた。
私は少し上機嫌になって、思わず彼に話しかけた。

「河野さんが、『太ってないじゃない』ってこの前言ってくれたから、あれからまたたくさん食べたんです。」

と言ったのが悪かったのかもしれない。

「人間、食べるだけだったら、動物と一緒じゃないの?」

と嫌味を言われてしまった。
やがて、次々にみんなが歌を歌い始めた。

カラオケの歌本をめくると、あの『セプテンバー物語』は載っていなかったので、今流行っている歌の一曲を選んだ。

私の番になりマイクを受け取り歌い始めると、少し緊張して音をいきなりはずしてしまった。
この曲も大好きで、自分の部屋でよく聴いたり歌ったりしていたのに。

なんと彼が途中から一緒に口ずさんでくれた。
私は驚きながらも、歌い続けた。
二番の英語の歌詞もどうにか歌い終えた。

「こりゃあ、歌いこなしてるな。」

他の人達からそう言われながら、次の人にマイクを渡した。

23時近くになり、そろそろ最終バスの時間が迫って来たので私はお店を出ることにした。
それほどバス停までは、このお店から遠くなかったけれど、仁科さんと佐野さんが送ってくると言ってくれた。

お店を出ると、外は身震いする程ずいぶん冷え込んでいた。
最終バスを逃さない為にも、二人は一緒にかなり小走りでバス停まで向かってくれた。
今夜はどうなることかと、不安な気持ちがあったけれど、思いがけないほどに楽しい忘年会になった。


意外な事実を知ったのは、翌日バイトが一緒だった仁科さんに教えられたことだった。

「河野さんね、私達がバス停に向かう後ろから、ずっとついて来てたのよ。
佐藤さんがね、バスに乗るのを見送ったあと、後ろを向いたら河野さんが立ってたの。
それで、3人でお店に歩いて行った。」

驚いてしまった。
全く気づかなかった。
私達の後ろをついて行ってくれてたなんて。
女性二人に送ってもらっていたのに。
信じられない気持ちだった。


その翌日は、二度目の忘年会だった。

「えーっ、今日も鍋?」

連続で鍋料理のコースだった。
私は目下ダイエット中だったけれど、せっかくの年末のご馳走なので、割り切って会費を払う分だけは食べようと決めた。
今回はドーナツショップの近くの、ある民家風のお店だった。
こじんまりとした、二階の和室に案内された。

「まぁ冬は、これに限るよ。」

十数人の、この前とほとんど同じ顔ぶれが集まった。
佐伯さんの姿は今夜もなかった。
私は盛りだくさんの食材を、鍋の中に景気良く入れた。

「おー、その投げやりな入れ方。
大ターン!」

と憎まれ口を叩かれながら、歳の暮れの一夜は更けて行った。
最後のデザートにみかんがきたのだけれど、それを配る彼は私に渡さなかった。

「どうしてくれないんですか?
意地悪ですね。」

焦って問いかけた。

「あんた、太るけん食べんどき。」

こういうふうに、冗談が言えるようになっていたのに気づいた。


今夜も二次会でカラオケ店に向かうことになった。
一昨日とは違う、全面ガラス張りのお洒落な感じのお店だった。
他の友人の計らいで、私と彼は隣同士に座らされた。

運ばれてきた料理を箸で摘まむ、私の変わった持ち方に気づいたらしく、

「なんか持ち方、ヘンだね。
こうだよ。」

自分の手を、手本に見せてくれた。
持ち方が違うのは知っていた。
私は彼の手をじっと見て、真似て食べ物を口に運んだ。

「あれれ、やっぱり慣れてないから、食べにくいですよー。」

私は元の持ち方に戻した。

「あーあ。
まぁいいけどね。」

側に座っていた北川さんが、

「いいなぁ、河野さん。」

と呟いた。

「しーっ!、しーっ!」

彼は慌てて人差し指を口元に運び、サインを出した。
噂はこうしてみんな知っているのだ。
でも私は気に止めずに、今はこんなふうに冷やかされているのが心地良かった。

でも考えてみると、佐伯さんのことはいったいどうなっているのだろう……。
私はあの日にあんなに冷たかったから、無理にあきらめて、お店でも口にしないようにしていたので事情がわからなかった。

「このメンツで行くんでしょ。」

唐突に彼が言った。

何のことだろうか?

と聞き耳を立てていると、どうやら初詣の話らしい。

初詣……!?

ここのところ続く忘年会で夢見心地だった私は、また信じられない気持ちだった。

河野さんと一緒に、元旦を過ごす……?
いや、もしかして男性達だけで行くのかな?

詳細がわからないまま、私は今夜も出来るだけギリギリまでお店に居座り、最終バスに乗り遅れないようにお店を後にした。


あと数日で今年が終わる。
今日は早番で、朝7時からバイトに入っていた。
今朝、始発のバスに乗る時は月が煌々と輝いていた。
まるで旅に出るような気分だ。

自宅からの最寄りのバス停は、始発駅となっている。
乗客は私の他には一人もいなかった。
私はいつものように、後ろから三番目の左の窓側の席に座った。
バスを降りると、だいぶん外は白んでいた。
だけれど、国道を走る車はほんの数台だった。

私はあの夏休みの最後の日以来、早番のシフトに入る日は緊張していた。
またいつ彼がお店に泊まっているか、わからないからだ。
毎度のように、入口のシャッターをガラガラと上に持ち上げて、店内に入った。
彼はどうやら来ていなかった。

私は一緒になった仁科さんに、この前の初詣の話の続きを聞いてみた。

「うん、男の人達は何人かで行くみたいよ。
でも女の人は、夜遅く出かけられる人って少ないみたいだから、まだはっきりとは決まってないみたい。」

「そうなの?
私行けるなら行きたいな。
ねぇ、仁科さん。」

「そうね、私も行きたいけど。
決まったらすぐ電話するから。」

そういうことで、午前中までの仕事だった私は家に帰った。

























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