観劇1年、今年最高の作品を挙げろと言われたら、『将棋図巧・煙詰-そして誰もいなくなった-』を選ぶ。
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上野ストアハウスでの上演から半年を経て、遂にDVDが発売された『将棋図巧・煙詰-そして誰もいなくなった-』
当然のように両班ともDVDを購入し、繰り返し視聴している
観るほどに引き込まれていく、不思議な感覚だ
この作品については、既に二度記事をまとめている
「罪を重ねて詰みとなる復讐劇の結末に待ち受けるものは、愛だった。『将棋図巧・煙詰-そして誰もいなくなった-』観劇の記録」は、上野ストアハウスでの観劇直後にまとめた考察
「怨念との決別。『将棋図巧・煙詰-そして誰もいなくなった-』『ケダモノ202』観劇と記憶」は、僕の記憶の扉を開け放ち、言いたいことを言い切ったものだ
劇場で4回観劇したとはいえ、見えていなかったものは多々あったと思う
最も変化した感想は、以前登場人物に関して、角を「真人間」と評価していたことだ
これが良く考えてみると、そうは思えない気がしてきている
玉が飛車を手に掛けた場面、角は「嬉し涙を流していました」と言っていた
常識で考えれば、一人の人間が死んだ瞬間に出るような言葉とは思えないのである
単純に、角は玉の復讐に自分自身の想いを重ねているのだ
そのことを後に玉に見抜かれていたが、飛車が死んだこの時点で角は真人間ではなくなっていた
玉の復讐は同時に、角の覚醒を促すことになったのだ
どっちつかずの傍観者、自分では何もできない偽善者を辞め、と金を手に掛けるまで"成長"していたのだ
太田守信氏の黒薔薇少女地獄に共通していることだが、死生観を問いかけられては胸を抉られる感覚に苦しさを覚える
だがこの感覚が僕は嫌いではなく、むしろ好きなのだ
僕は高校2年の現代文の授業で、夏目漱石著『こころ』を読んでから、人間の心情の闇の部分や、「生きている意味とは何か」というような哲学的な問いに対する答えを頭の中で探し続けている
生きている中で過去を振り返る時間が急に訪れては、「何故自分は生きているのか」と悲観的、厭世的になったことも何度もある
それでも、今僕は生きている
自分の中にある闇を光の下に引き摺り出し、不細工な生き様を曝して誰かの生きる力に変える
『こころ』の登場人物である"先生"と同じことを実践したいのだと思う
今となっては流石に自殺で人生に幕を下ろすつもりはないが
そういったことを深く考えさせてくれる作品は、文学だけでなく演劇で出会うことも多い
昨年10月23日に小劇場観劇を始めてからおよそ1年、その中でも『煙詰』は、最も印象に残った作品だったと思っている
令和6年1月11日〜28日
『誤解のBar 2階目』三栄町LIVE
僕は期待している
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