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そこらへんのSF、そのへんのおじさん。 【書評なんてガラじゃないのさ】

この物語はフィクションで、実際問題 人物団体 事件一切 all fiction モーマンタイ。
そんなSF、そんな非日常、そんなディストピア。所詮小説の出来事なんだ。
でも、これはなんなんだよ。なんで、こんなにリアルなんだ?

どうして、今まで気が付かなかったんだろう。

そこまで読んで、はじめて気づいた。
この世界が、最初からディストピアなんだ。




清々しいほどにタイトルをパクってしまった。すみません。どうしたら許してもらえますかね?
とりあえず、やめろと言われたらやめる覚悟はしておきつつ、おもしろいことを書くしかない。本家様のような面白いことがじぶんにも書けることを祈るばかりだ。
そして書評なんて言ってしまったらものすごい大層なことをしている気になってしまう。勝手にハードルを上げているが、実際は『読んでない本について堂々と語る方法』に基づき完全な理解など最初からあきらめている。
まあ、『読んでない~(以下略)~』も読んでないけどね。
これがほんとの因果応報! 因果応報? まあいいや。

思えば毎回々々、タイトルについて性懲りもなく言及しているな、と思う。どんだけ自意識高いんだよ。でもそれで言ったらこの本は逆にタイトルからはなんにもわからない。

「持続可能な魂の利用」 著 松田青子

最初はやっぱりエコとか環境の話かな、と手に取った。
そしてこれスピリチュアル? …やめとくか? って一瞬逡巡。
でもちらっと見た中身はおじさんの定義を話してた。
なんだよなんなんだよ。

一つ、どれだけ本人が「おじさん」であることを隠そうとしても無駄な努力である。どこかで必ず化けの皮剥がれる。けれど、「おじさん」であることを隠そうとする「おじさん」は実はそんなにいない。「おじさん」はなぜか自分に自信を持っている。

自分は「おじさん」なのかと不安になった? じゃあ大丈夫だ。定義的に「おじさん」はそう問えないからね。
これは「おじさん」に支配された「少女」の物語だ。

「おじさん」はいたるところにいる。「おじさん」はどこにでも存在している。「少女」はいつも「おじさん」におびえて暮らしていた。
だが、ある日急に「少女」の姿は「おじさん」から見えなくなった。
「少女」は「おじさん」に復讐を始めた。今までずっと奪われてきた。ずっとずっと抑えられてた。その怒りはすさまじかった。
ああ、なんと楽しいことだろう。

これはフィクションなのか? いや、そうではない。

この物語はずっと女性の視点で進んでいく。そしてどの人物も息苦しそうだ。そんな描写が痛いほど続く。そしてそれは確かに身に覚えのあることだった。これは「現実」なのだと、なんとか伝えようとしていた。
自覚がないことを自覚した。
自分は確かに同じような世界で生活しているはずだ。でも感じ方は確かに違っていた。それは社会と呼ばれるものなのだ。

これをポリコレだとかフェミニズムだとかの問題と軽々しくまとめないでほしい。誤解を恐れずに言うと、そんなものはできることなら関わりたくないしどうでもいい。血も涙もないと罵られてもかまわない。理由はただただ自分の身に余るからだ。何もできないのにポーズだけとってみせるなんてかっこ悪すぎるから。堂々と不実行を有言しよう。

そんなことよりも、自分の知らない世界、違う視点、異なる立場が存在するという当たり前の、あたりまえだとされていることに気づけたことが何よりの収穫だった。ただ、脅かされないということは普通でないと気づけてよかった。

これは単なる気づきのお話。ディストピアはなにも小説の中でおとなしく読まれるのを待っているだけの存在ではないのだ。すでにこの世界がディストピアだったのだと気づいただけ。たった、それだけ。






・すぺしゃるさんくす


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