言葉の魔力を信じてみよう | 自省録#1
自省録#0にて、これから内省したことをどんどん書いていきます!
などと高らかに豪語してから、早5ヶ月も経っていました。
自省録#1です。(パチパチ)
内省旅の中で気づいたこと& 今後の自分への戒めを記します。
というやつです。
今回はこんな課題に対してのお話。
これ、人生の難問の一つだと思います。
でも、度重なる内省の中で、これを乗り越える力をくれる一つマジカルなものに気づいたのでこれを綴ってる次第です。
そのマジカルなものとは、言葉でした。
言葉の持つ魔力について、少しお話させてください。
もしかしてこれ、魔法の言葉?
私は日記を書くのが習慣で、特に心にモヤっとボールが溜まり出すとノートを書くようにしています。
とある日、人生を盛大に振り返ってる時(だいたいいつも振り返ってばかりなんですが)、やっぱ自分には苦い記憶がいっぱいあるなあって思って少し落ち込みかけ。
そんな流れで、なんとなくノートに綴った言葉が、なんだか不思議なパワーを秘めてるように感じたのです。
その言葉が、
「○○も人生。」
これでした。
この言葉をみた時、なんとなく、本当になんとなく、現実がすっと腑に落ちる感じがして。目の前の現実にすごく苦しんでたとしても、これも人生か〜なんて言ってみると、まあそんなもんかー、ぼちぼち行けばいっかー、みたいに、少しばかりか前向きにしてくれる(気がする)魔法だって感じたんです。
現実を受け入れるのは正味難しい
目の前の現実に向き合い、そのまんま受け入れることがどれほど難しいことかは誰もが知っていることです。
特に、厳しすぎる選択を迫るような、残酷すぎて神を恨んでしまいそうな現実だと尚更そう。
その程度に差はあれど、
どんな現実も、最初からおっけ!どんとこい!とすんなり受け入れられる人は、たぶん人間じゃないです。超ポジティブなアンミカですら多分最初からそうではなかったはずです。あのお釈迦さまですらも。
許せんもんは許せん。
受け入れられんもんは受け入れられん。
現実を直視すれば自分が壊れてしまうと分かるから目を逸らすし。
そしてそういう自分が嫌になって、自分を保つために自分を正当化したり、嘆きの深海にたゆたったり。
それが本来の人間の姿です。
現実問題、現実を受け入れろと言われても、
それが出来たら苦労しねえよ!
と反抗期を極めた少年みたいに声を荒げたくなるものだと思います。
でも、現実は否応無しに私たちの前に立ちはだかってくる。
それに対して、ただ嘆き続けるか、現実を受け入れどう行動するかを考えるか、もしくは何もかもを諦めるか、私たちは常に選択を迫られているのです。
でも、実際そういう選択肢があっても、「選択肢:現実を受け入れる」を選ぶには少しでも前向きな気持ちがなければ難しい。絶望の最中に、一縷の希望さえ見えてない状態でこれを選べるほど人間はそう強く出来てない。
じゃあどうすれば"受け入れる"を選ぶことが出来るのか?
これの一助になると気づいた力が、言葉の力だったのです。
言葉の魔力
大ヒットした本の題名みたいな見出しになってますが、
「まあ、これも人生だよな!」と、そう言葉にしてみる。実際に口に出して言ってみる。
すると、なんだか不思議と、
あーそうかもな。これも人生かー。
みたいに、謎に腑に落ちてくるんですよね。謎に。
これってなんでなんだろうって考えてたんですけど、もしかすると「これも人生」って言葉によって、人生に対する期待値が下がるからなんじゃないかと、思ったりしました。
人生への期待値が高ければ高いほど、理想と現実の差に落胆するけど、その理想をこの言葉がガクンと下げる効果があるんでは?
なんてね。
まあそんなこんなで、言葉には、そういう人智を超えた魔力があると私は感じてます。
それに、もう一つこの言葉には別の力があると思ってて。
絶対的な痛みを相対的な痛みに変えてくれるっていうところです。
目の前の現実に心がもげるほど苦しみ絶望してる時って、その痛みが絶対的な痛みになってるサインだったりします。絶対的な痛みになってるのは、視点がその痛みにガチガチに固定されてるからです。
これだと視野の中に苦しみしか見えないので、史上最大級の苦しみのように感じてしまう。
でも、その痛みが絶対的になってしまってるなら、"人生"というもっと無限で壮大なものを天秤のもう片方に乗せて、相対的なものに変えてしまえばいいんじゃないかと。
魔法が効力を表すには時間が必要な場合もあるけれど。
でも、おまじないを何度も何度も唱えるように、この言葉も繰り返し言い続けてたら、いつかは効くんじゃないかなと思うんです。
ずっと言ってれば、脳がそれに順応して、そういう考え方がすっと染み込んでくる。脳って案外それくらい単純だったりもするのです。
人は、この世界を言葉によってしか理解できないと言います。
目で見ることはできても、
心で感じることはできても、
それを結局頭で、本当の意味で理解するには言葉が媒介しないと出来ない。
じゃあ、人間が言葉によって世界を認識してるんなら、その言葉をうまく操れば、世界も違って見えてくるのでは?
と思ったわけです。
あれもこれも全部人生だ!
私がかつて海外を放浪してた頃、アルゼンチンで"ケチャップ強盗の発展版"という無駄に卓越したスリに引っかかったんですが、
この珍妙な思い出を引き合いに出してみます。
お父さんから譲り受けた一眼を盗難で失うのも人生。(お父さんごめん)
パタゴニアへの夢が破れたのも人生。(これは大袈裟)
パスポートにコツコツと貯めていたたっくさんの入国の証をごっそり失うのも人生。(これは結構ショック)
全部人生!!
これら全部が自分を、今の自分を構成していて、
これらも私の一部なんだ。
その出来事があっての今の私だ。
すると、その事実がすうっと染み込んできて、自分の一部になる気がするんです。
なんとなく、ですけどね。
そして、すくなからず冷静になれる。冷静になると、いかに自分の視野が狭くなってたかがわかる。
この珍妙スリ事件で言うと、スリに遭った直後〜数日は、最悪、人間怖い、信じらんない、性悪説!泣
みたいになり、学びも何もねえよ!ただの悲劇だよ!としか思えませんでした。
でも、これも人生か〜モードに入れば、
そっかみんな生きることに必死なんだよな、とか、
自分は物に執着してたんだな、とか、
視野が広がって、冷静に感情から距離を取れて、いろいろ気づく。
そしてなんとなく悟った気になります。
こんな陳腐なことを悟りと言うとお釈迦様に怒られそうですが。
まあとにかく、
うまくいかないのも人生。
スタート地点が人より低いのも人生。
同じ失敗ばかりするのも悩みばかりなのも人生。
これも人生。
あれも人生。
どれもこれも、全部、人生!!!
"自分の人生を生きる"というのは、みんなに平等に与えられたものです。
自分の人生を生きる、ってのにもまたいろんな魔力が潜んでそうですね。
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