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なぜ「分かってほしい」と苦しむのか | 自省録#3

こんばんは。
前の記事からあほほど時が経っているにも関わらず、#3は前回の#2の続きでございます。
今回は少し長め、かつ少し踏み入った内容になってるので、しっかりブドウ糖を摂って読んでいただけると嬉しいです。4000文字なので普通に長いです。

さて、個人的な課題として、こんなのがありました。

【課題】分かってほしいと渇望するも満たされず苦しむスパイラルから抜け出したい

私の中で、
自分の悩みを打ち明けたけど、軽く受け取られてむしろ苦しくなった時、
かつてのトラウマがフラッシュバックしてきて強烈な不安が襲ってきた時、
など、いろんなシーンで「分かってくれたら、、」て思うことが多々あって。でもこの気持ちが高ぶる時決まって、断末魔を見てるかの如く苦しくなって。

だから、私としては、この「分かってほしい」って思って苦しむ状況を変えたいってずっと思ってて。

これに対して前回、そもそも論として、
『例え分かってほしいと思っても、”本当の意味で”人間は他人の痛みを理解はできない』
というタイトル通りのことを書きました。字面が残酷。

他人に分かってもらうという希望=実現不可能
なただの幻想なので、もう明らかに苦しみの原因だったわけです。
仏教の世界にも「求不得苦」という言葉があるけれども、求めているものが得られないって結構苦しいですよねえ。

だから、”分かってほしい欲求”を手放す方が現実的だ!と知った。
じゃあその次のステップ「どうやって手放せるか」についてを書いています。

ただ、簡単に捨てられそうにはないし?分かってほしいって気持ちに偽りもないし?
どうしたらええねん!!このやろう!!

と創造主か神かよくわからない何かにキレ散らかしてしまったので、まず一旦、解決の戦略を立てるために、敵の情報を掴むべく、
1. この気持ちは具体的に何なのか(WHAT)
2. なぜこの気持ちが生まれてんのか(WHY)
を考えて見ました。

1. この気持ちは一体何者なのか

分かってもらえないのは分かってる、けど分かってほしい

「分かってほしい」って気持ちって、なんとなくどこか掴み所ないなってふと思って。「お願いだから誰か分かって!」って苦しみが爆発する時、なんでここまで苦しくなるんだろう?っていうのを深掘りしてみました。

言葉通り、「分かってもらいたい」と言う欲求が満たされる気がしないから苦しいんじゃ?とも思うけど、もうちょっとこの ”満たされない苦しみ” の解像度を上げたい。

とあれやこれや考えをこねくりまわしていると、実際、分かってもらうことでどうなることを期待してるんだ?って思ったのです。

同情してほしいのか?
ただ慰めてほしいのか?
分かってもらうこと自体が喜びなのか?
それとも本当にただ自分ではない誰かがこの痛みを一緒に受け止めてくれること自体が救いなのか?

あらゆる「分かってほしい」の先にある期待は何なのか?

「分かってもらうこと」で自分に何がもたらされるのか

私なりにたどり

孤独感を薄めること

なんじゃないかなと思いました。

分かってもらえれば、この孤独感を解消できるはずだ、という期待がまずあって。人と繋がってるあの喜びが得られるのではないかっていう期待。

分かってもらえないかもと思っていても、その期待がもし叶った場合の喜びがあほほど大きいので、どうしてもそれに縋ってしまう。
だからもう本能的にその喜びを求めてる結果が、「分かってほしい」渇望として現れているのでは?と。

脳が期待にすがってる状態。
そんなものないと頭では分かってても、甘い密を求めてしまう状態。

じゃあどうしてそんな無謀な期待に縋ってしまう状態に陥ってるのか?

二つ挙げてみました。
(1)”孤独=強い痛み” として記憶されていて、あの感覚をなんとしても回避したい、と本能が反応しているから。
(2)他人に分かってもらうことでしか孤独感を消せないシステムになってしまってるから。

そして、(1)(2)について、どうしてこうなってるのか?をそれぞれ深堀ってみました。

(1) 小さい頃あまり理解してもらえなかった(と感じていた)から

私的に、最も根本の理由だと思っています。
まだ分別がつく前に、周りから理解してもらうという経験を積むことができなかったという理由です。

子どもの時に本来満たされるべき欲求が満たされなくて、その満たされなさが孤独感になって、孤独感が痛みになって、、
そして脳が、その痛みを避けることを最優先にしてしまい、痛みを避けるには分かってもらうしかない!ってなって「分かって欲しい!」と心が叫ぶのではないかと。

休職してから鬼の自省してる中で、だんだんと体得したことがあり。
それは、低い自己肯定感とか、自信のなさとか、そういうのって全部発達過程にヒントがあったってことで。
でもこれは、誰が悪いとかそういうことを言いたいんじゃなく、誰も悪くないものだと思います。そういうものはこの世界に山ほどあると思う。

子どもの時って、周りの助けがないと生きていけないです。だから子どもは自分のことをなんとか主張したり表現して、周りの人に分かってもらおうとします。
でももしこの過程で周りに理解してもらえないこと、そう感じることが重なったらどうなるのか。

自分はおかしいのかもしれない。
自分は間違ってるのかもしれない。

なんて思って自分のことを否定的に感じ始めてしまいます。生物に備わる学習本能のままに従えば、必然的にそうなる。そしてこの事象が重なれば重なるほど、その学習は強化されて、どうせ伝わらないっていう考え方が育つ。

自分一人透明なガラスの箱に閉じ込められて、
自分の思いや主張ががガラスに跳ね返って誰にも届かない。
助けてほしいのに、自分の声は誰にも届かない。

子どもにとってこれほどの孤独は他にあるんでしょうか。
ただでさえ助けが必要な子どもにとって、孤独感なんぞ一撃必殺を喰らうようなもんなのでは?

その強い孤独感は、生存戦略上、今後自分が避けるべき情報としてくっきりと刻まれる。だから、なんとしてでも分かってもらえなければならない!!
と思ってしまうのでは?と思ったわけです。

(2) 自分で自分を認められない状態に陥っているから(=自尊感情が低い)

2つ目。結局、自尊感情が低いからなんだなって、思いました。一周回ってさらに回って回りまくって、結果これでした。

自尊感情が低くなってしまう理由は山ほどあるけど、自尊感情が低いと、
他人が認めてくれることでしか自分を満たせなくなる。
自分で自分の存在価値を認めることが難しい
だから、消去法的に、他人に認めてもらうしかない、分かってもらうしかない、という手段しか残ってない、苦肉の策でしかないって感じです。

なんで自分で自分の価値を認めることができないのか。
これも、(1)と同様に、発達過程に鍵があった。発達過程で、自己否定の思考癖を身につけてしまったからでした。

「また失敗した、自分はダメだな。」とか、
「恥をかいた、自分は無価値だ。」とか。

この自己否定の怖いところって、無意識に自分を否定する思考が根付いてしまい、また無意識的に自分を否定する思考をしてしまうところです。
自己否定というのは、いつも知らないところでじわじわと心を蝕んでいる悪魔でした。無意識の世界に潜むサイコパスでした。

発達の話を少し挟むと、子どもは自分がどういう存在なのかを、”周りの反応や言動によって”理解・評価していきます。
周りがかっこいいと言ってくれると自分のことをかっこいいと評価するし、周りがどんなことも受け入れてくれれば、このままでいいんだ、と思う。
だから逆に、周りがいつも困った反応をしたり、怒っていたりすると、自分は迷惑をかけている・ダメな存在なんだ、等と、必然的に自分をマイナス評価してしまう。

こうやって、いつの間にか自己否定がしれっと萌芽するのです。

自己否定癖が染み付くと、自分で自分の心を満たせないどころか、むしろ壊していきます。

だから余計に、心がズタズタになって、もう誰でもいいから誰か分かって!認めて!褒めて!と、自分が他人から与えられることにばかり意識が向いてしまう、と思ったのです。

じゃあどうすればいいのか

じゃあどうしたらこの肥大化した行き場のない気持ちを沈められるのか。
これも書いてると途方もなく長くなるので(すでに長いですけど)、また次回ので書こうと思います!
私なりに見つけ出した道を共有したく。

いつもこんな駄文を読んでくださる皆様、本当にありがとうございます!!
それではまた〜!

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