感受性の強さは恩寵か代償か
世間が春めき始めましたね。
春って、フローラルでほんわかしてて明るいイメージしかなかったですけど、乾燥するし、肌ゆらぐし、暴力的な粉が空気中に解き放たれるし、そう思うとただのハッピーな季節とは到底言えなさそうですね。
さて、今回は、わたし史上最大にモノの見方が変わった「考え方」についてを綴ります。
感受性に対する捉え方のお話です。
感受性の強さは恩寵か、それとも代償か
ちょっと前まで、小さい頃からものすごく重大だった悩みがありました。
敏感性
についてです。
花粉症とか、アレルギー、などの人体のではなく、心の敏感性です。
ちょっと街に出るだけですぐ疲れる、とか、
新しいことにチャレンジしようと思っても恐怖で足がすくむ、とか、
この激動社会を生きるにはハンデにしかならないようなものをたくさん持ってる気がしてならず。
とにかくずっと悩んでいたわけです。
そういう自分の敏感なところは、社会生活を阻害するただの欠陥だと思ってました。
もっと鈍感だったらよかったのに、なんて叶いもしない願いで自分をすり減らしたりもして。
でも、書店にてたまたま目に飛び込んできたとある本に出会ってから、世界がぐるりと回転したんです。
その本は、
『世界は善に満ちている』
これです。
なんて美しいタイトル。
って思ったのを今でも覚えています。
これはもしかしたら救世主かもしれない...!
って反射的に手が伸びたのを今でも覚えてます。
その時の私は、「世界はどう考えても性悪説だ!」と穿った確信があって。その時の私には、もうどう考えても世界は悪すぎたんです。
でもその場合、この世界で生きるのが無理ゲーすぎる、到底。とも感じていました。
だから、世界はそうじゃないんだよって反証を、万馬券にすがるような気持ちで探してて。どうかそうじゃなくあれ!って感じで、もう賭けるしか手段が残ってないかのように。
まあそんな状況下でこのタイトルを見つけたわけなんですが、これに出会った瞬間は、もう本当に万馬券が当たった時のような気分でした。
そして、中身はほんと、救いだらけでした。
この本は、トマス・アクィナスの『神学大全』を解説した本なんですが、そこに書かれていた視点は、本当に驚きの連続でした。
そんな、私の天と地がぐるんと反転した2つの視点を紹介します。
あらゆる感情は愛から生じる
この本の中では、感情についてを深掘りする章があります。その中な、こんな命題がありました。
私は、当時性悪説で頭がいっぱいでした。
なので、人間本来の利己性で簡単に人を傷つけるから、結果的にそういう感情が生まれてしまうんだよ!
つまりその感情の根源は邪悪な人間の本性だ!
的に思ってました。論理の飛躍が甚だしいですが。
この命題に対し、トマスはこう言っていました。
何かを好きだと思う気持ち、つまり愛。
ちなみにこの本では、愛という言葉は結構ライトな意味合いで使われていて、愛 = 好きと思う気持ち、と表現しています。
憎しみだって、何かを愛していて、その愛するものが危険にさらされる時に生じる。つまり、憎しみも愛があるから生まれる。
争いだって、何か愛するものを守りたいから起こる。これも結局、愛があるから生まれる。
そう、出発点は常に愛なんだと。
タモリさんが、「なぜ戦争が起こるのか」という問いに対して、「愛があるから」と答えています。タモリさんはこのことを理解されていたんですね。本当にすごいです。
とにかく、この考え方を知った途端、知らぬ間に背負ってた重荷がずり落ちたのか、心が軽くなった気がしました。
世界は歪みあって憎しみあって傷つけあうだけの残虐な世界じゃない。
全ての根源は悪じゃなくて愛だった。
そう思えただけで、どこか救われてたんです。
結果だけをみれば悪にまみれた残酷な世界に見えるけど、その過程をみれば、愛が故のものであるんだと。
ここでまず一つ救済されました。
そしてもう一つ、画期的な視点を紹介します。
世界はいつだって私たちに働きかけている
私たちの全ての感情は愛から始まるわけだけども、じゃあその愛はどうやって生まれるのか?
というもう一つの命題について、話がされていました。
トマスが言うには、何かを好きになるのは能動ではなく受動である、と。最初は受け身から始まるわけです。
好きになる前に、まずその対象が私に働きかけていて、それに私が受動的に反応し、結果それを好きになり、愛が生まれるんだと。
愛はいつだって外部からの働きかけによって生まれているんだよと、そう言っていました。
いや確かに、その通りだなあって感じです。
これを読んでふと思ったんです。
"世界は私たちを喜ばせるために絶えず働きかけてくれてるんだ"と。
好きだと思えるものがあることは、私たちをこの世に生かす最強の動機付けになると、私は痛感しています。
好きなもの、人、対象は、自分自身に喜びをもたらしてくれる。それは自分の情熱を注ぐ対象になる。好きだと思うものに愛を注げることは本当に幸せなことだと思うんです。
そういう喜びは、いつだって世界からの働きかけによって生まれていた。
そう、つまりは、世界はいつだって私たちを生かそうとしてくれている...
そう思った途端、自分の枯れ果てていた何かが再び芽吹いた感じがしたのです。
そして、今までの全感動体験、喜び体験は、世界が自分を喜ばせようとあれこれと手回ししてくれてたものだったんだな〜、と気づきました。伏線回収した気分てます。
世界が私を生かそうとしてくれてるなら、生きるの辛いなんて下向いてばっかじゃなくて、顔あげて、その働きかけに意識を研ぎ澄まして、もっともっと喜びを探しに行こうじゃないか!!
って、途端に生きる希望が溢れ出てきたんです。
世界は私たちの知らないところで、私たちを生かそうとしているのです。
感受性の強さは恩寵だ
感受性が強いとは、すなわちより多くの働きかけをキャッチできるということです。多くの働きかけをキャッチするということは、それだけ多くの愛が生まれるということです。
その愛は自分を生かす原動力になるのです。
もちろんそこには自分を痛めつけるものも多く含まれます。辛いものも多く受け取る分、辛いのは事実です。辛いことが重なれば、生きてるだけで辛いんだ、となってしまいます。これはある意味代償だと思います。
でも、その代償を凌駕するほどの恩恵もあるはずです。その感受性があるからこそ感じられる、強烈で鮮烈な喜びがあるんです。
大切な人の愛、
人の温かさ優しさ、
大好きなものの存在。
これらはものすごく私たちを生かしてくれます。
傷つけてくるものなどの悪から逃れるために神経を集中させ続けるのではなく、喜びや愛に目を向けて生きていきたいものですね。
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