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無駄に気温が上がってしまったお陰で、保護者の皮肉も白熱する。室内温度計は36℃。40℃にもなればこの淑女を黙らせることは赤子の手をひねるくらいには容易いのだが、そう上手くはいかない。
気温上昇の恩恵とでも言おうか、今日も今日とてエナジードリンクがあまりに美味いので、本日は二本軽々飲み干してしまった。この二本分のカフェインは翌朝、ツケとして回ってくる。酒が飲めない。物理的に言えば食堂から胃へと自由落下させることはできる。ただ3パーセントの液化アルコールを摂取するだけで前後の判断もつかないほどに酔い潰れてしまうため、毎夜のルーティンはエナジードリンクとして、私の身体を流れている。酒の為に働き、そそくさと帰って飲酒を嗜む中年の娯楽はこれに似たものであろうか、残りの液を飲み下しながら考えた。

旧車を模した乗用車は中古で購入するにも96万円という金額と引き換えだった。アクセルベタ踏みでも、山中暗所の登り坂は歯が立たないらしく、制限速度を10キロ下回る形で走行を続けていた。途中見つけた休憩スポットで明かりを炊き、お目当ての昆虫の来訪を待ちつつ、星空を眺めた。エンジンを切ってしまったが最後、音というものが確認出来なくなった。時折暗闇の中から小動物が低木層を踏む音が聞こえたり、また鳴き声が聞こえるといったような具合で、水を打ったような静けさはこういうものだろう、と朧げながら感じた。

山頂から平地まで下るカーブを30枚ほど駆け抜けると、かつて足元に見えていた星屑のような街の電光はもう目の前である。煙草1箱分軽くなった車で2キロメートル先の信号へと降りてゆく。前方に見えるはスポーツカー3台。あまりにスピードに差がありすぎて、こちらから見るとまるで光る鞠のようだった。ろくに休憩も取らずに稼働を続ける身体中枢はもっと早くに限界を超えていた。疲労による脆弱な精神性あるがゆえに、反対車線の路側帯に佇立した鹿に気を取られてしまう。県道4号60キロ。そうして私は鹿を轢いた。ドリフト痕でピカピカの路面を3メートルくらい引き摺られる鹿が、ハイビームに照らされてこちらを見ていることに気がついた。というより、その気づきがあって初めて鹿を轢いたという事態の異常性を知る。
この後鹿は何食わぬ顔をして茂みの中へと消えていった。衝突の弾みで車体が後ろへ振れた時に冷静に前方を見つめていたが、路傍に投げ打たれる個体のほか、10頭とはいかないまでも、6頭くらいの塊がアスファルトに影を作っては路傍に消えていった。目の前を走っていたスポーツカーが赤い線を作りながら畝った下りへ吸い込まれていく。同乗者と互いの無事を確認し合う。光源が少ない中腹でも分かるくらい、豆鉄砲を喰らったような顔をして立ち尽くしていた。
下山を果たして初めて見えたコンビニに停車すると、フロントボディのパーツに複数の亀裂が刻まれていて、まだ渇ききらぬ体液と体毛がびっちりと残置されていた。高校3年の頃に私を刺したオオスズメバチの死体は、たった今部屋の奥で標本となって保管されている。周知の通り鹿から金は取れないから、グラスファイバーのクラックからはみ出た体毛を丹念に抜き取り、手頃な袋に入れて保管した。破壊されたボディを見ながらげらげらと笑うのも、時間という持続を変更することができないことに対する諦めと、開き直りだった。この後財布の不在を確認し、再び山へと踵を返すことになる。その話はいずれまた何処かでしようと思う。

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