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青 / 創作

「悪い男に引っかかっちゃっただけで、そんなの忘れれば良くてさ」と言いながらストローで空間をなぞる友人の、グラスの中の氷が溶けている。溶けた氷が随分と厚い層を作ってミルクティーの上に漂っているのを見ていると、自然と目頭が熱くなった。僅か数ミリに満たない上澄みの色が冬晴れの空の色を反射している。それはまるで、彼と行った海によく似ている。若い、青。
私の手元にあるアイスコーヒーも、すっかり薄まって色が褪せている。そんな簡単に忘れられて、忘れて溜まるか。簡単にふらっと忘れてしまって丸く収まるような、そんな往生際の良い女になりたくなくて、薄まった部分をストローで器用に吸って、グラスの底をぐるぐると掻き混ぜる。
私からすれば付き合っていた当時はもちろん、別れてから今に至るまでも、彼を悪い男だなんて一度として思ったことが無かった。むしろ私には勿体無いくらいの人だと思っていた。それを知ってか知らずか友人は変に私を気遣って、彼のことを蹴手繰り回す。何も言えなかった。手元のドリンクが薄まってしまうほどの長い時間をかけて、力任せに彼を虐げる友人の方が今の私からすればよっぽど悪い女で、尚且つ敵だ。
仮に私が今、彼を言葉で傷付けることを試みても良い。けど彼もまた私のことを何処かで傷付けるのかもしれない。
別れる数日前に壁掛けのカレンダーにひっそりと残されていた「飲み」という二文字は今も私の部屋の壁に残っている。別れを切り出されてから数日後の予定、それは今日の予定だ。もちろんその予定の中に私は含まれていない。
もしかすると彼は初めから別れを切り出すタイミングを決めていて、それに合わせて飲みの予定を決めたのではないだろうか。そこできっと私の話題が出て、同席する彼やら、彼女やらに私の悪口を言うのかもしれない。きっとそうだ、そう思うから私は何も言えなかった。瞼がじわりじわりと熱くなって、視界がゆらゆらと曇る。
「あんたを泣かせる男なんて」と友人が机を拳で叩く。彼女がその怒りを加速させればさせるほど、かえって私は惨めな気持ちになる。あ、私、今泣いているんだということをその瞬間に理解するくらい、私には余裕も何も無い。すっかり氷も溶けきったミルクティーが小さく産んだ泡沫を、拳の一打が綺麗に溶かしてしまう。それでもまだまだ残っているミルクティーを一瞥した友人は「これじゃあもう飲めないよね」と笑ってもう一杯頼んだ。薄まったものは戻らないから、つぎ足すしか無いということを、私はよく知っている。だから私は何も言えなかった。

今までありがとう とだけ書かれた紙が封入されたダンボール箱が私の家に届く。送り主の住所の空欄と、箱の隙間から仄かに香る柔軟剤が、彼から送られてきた荷物だということを物語っている。見覚えの無い写真立てにはめられた二人の写真、私の身代わりだからと彼に渡したぬいぐるみ、私が貸していた本、その傍らには薄手の紙袋で包まれた数センチ四方の包み、一緒に海へ行った時に使われたフィルムカメラを見て、これまでの思い出さえも一切合切返された気持ちになってしまう。36枚撮りの写ルンです、カウンターは30の表示で止まったままだった。本体丸ごとゴミに捨ててやろうかと考えてみるものの、30枚分の思い出を火に焚べるという選択は私には出来ない。

「ご確認ください」という一言から並べられた30枚に及ぶ写真、2枚申し訳程度に撮られた砂浜からの景色を除いて、そこに写っているのは全て私だった。カメラなんて触ったことがないから、上手く撮れるかな、と笑い混じりの声や、ぎこちない手付きでカメラを触る手元が少しずつ現像されていくのを感じる。不思議と顔が思い出せない自分が居る。「綺麗に写っていますね」と微笑んでくれた店員に対して私はええともああとも、どちらともつかない返事をして店を出る。笑い合う日々に残す写真は純粋な優しさで、もう笑い合えない日々に残る写真はただ残酷で、殆ど目を瞑って写っている私の姿を見ていると彼のことをきちんと見詰めていなかったのではと今になって思うくらいだ。
不意に私が死んでしまいたいと呟いたその日 夜の首都高を駆け抜けて連れて行ってくれた海がある。裸足になって海へと駆け出し、膝下までを水中に滑り込ませる途端に彼が呟いた 「こんなに冷たいんだから、辞めておこうよ」という言葉に私は救われた。凍てつくほどに冷たい水の中で脚をばたつかせてみると不思議と死にたい気持ちが水に溶けていった。
貴方と生きていきたいと呟いたその日もまた、夜の首都高を駆け抜けて連れて行ってくれた海がある。貴方が浜辺で吹かす「ずっと言えなかったことなんだけど」という呟きは水中に脚を擦り込ませずとも分かる、冬の海を超えた冷たさがあった。最後で良いからとかいう謎の台詞を呟いて波間に脚を浸すと不意に死んでしまいたいという気持ちに駆られた。

「いつか忘れてしまうよ」という言葉に対して私は何も言えなかった。「でもいつか、戻れるかもしれないね」という含みのある彼の苦い言葉に対して「こんなに冷たいんだから、辞めておこうよ」という言葉が喉まで出掛ける。もちろんそんなことを言えるはずもなく、その言葉を夜が吐き出す冷たい空気と共に飲みくだした。私は今日と同じようにええともああとも、どちらともつかない返事をする。未来永劫溶けていくこともできない、薄めることしかできないことをよく知っている。だからこそ私は何も言わなかった。



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