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圏外

つい先日、自室の引き出しを漁っていた時のこと。7年前くらいだろうか、空室になった姉の部屋からくすねてきた携帯電話とその充電コードを発見した。充電しながら小一時間待って、私には何ら関係のないメールを読み漁り、満足したところで着メロのシリーズをひと通り聴き流してみると、手の施しようがないほどの郷愁に襲われた。部屋の掃除も佳境に差し掛かる午後6時、四畳半の部屋に低音質で鳴り響く " おぼろ月夜 " を聴いていると、30センチばかり身長が縮んで、昔に戻ってしまったような気分になる。
スマートフォンが一般化している今、連絡手段は凡そLINEで、メールなんてものは片手間のような扱いになっている。ガラケーもひっそりとサービスが続いているけれど、きっとそれすらも、気が付かないうちになくなってしまうのだろう。そう意識しないうちに「着メロ」も「デコメ」も死語となった。今日本で、この言葉を使っている人がいるのかと思うくらいだ。送り先のいないメールに 「お元気ですか」と打ち込んで、静かに電源を切る。
つくづく、すごい時代になったものだと思う。もちろん生まれながらに携帯電話すらなかった世代が大半を占めるのだから、私がこの手の言葉を使うには相応しくないのであろうが、産声をあげて暫くはガラケー世代であった身として、なくなりつつあるテクノロジーを思うとやや感傷的になってしまう。小さい画面の中で躍る絵文字や安っぽい音楽は、確かにひとつの時代だった。耐久性のない2つ折りの躯体の隅々に、時代の二文字が溢れ出ていた。
スティーブ・ジョブズがiPodをデモ発表した日、ひとつの時代が終わったんじゃないかと思う。これまでにない機能が沢山追加されて、しつこく送られてきたメルマガはあっという間に息絶えた。携帯ゲームもサービスを終えて、皆挙って新しい世界へと舵を切り始める。兄から借りた端末を手に取って、画面に映し出されたキーボードの表示。あれを見た時の感動は今でも忘れないし、ちょっとした絶望も含まれていたんじゃないか、そう思う。
便利になった分、少しずつ自身の乏しさや見渡す世界の乏しさみたいなものを感じる。というより人間というものは鼻から乏しい存在で、それをデジタルテクノロジーが浮き彫りにしているだけなんじゃないか、とも思ったりする。一際悲しく思うのは、便利さの裏側で犇めくネットによる攻撃。ネットを通じて特定個人を痛めつけて死へ追いやってしまった、そんなニュースを目にする度に、主体性もない無機質な板1枚で、温度のある人間をいとも簡単に殺せる時代へと変貌してしまったのか、と嘆かわしく思う。生きる上での補助輪的な存在が、主軸になってしまうことが恐ろしい。
先日、石垣島へと旅をかけた。レンタカーで1ミリたりとも知らない山間を流していると、やがて圏外、電波ひとつ立たない場所へと放り出される。設定していたマップが散り散りになっていく様を見ながら突として不安になって、柄にもなく取り乱してしまった。しかしよく考えてみれば先人達はそんなものなどに頼らず道を切り開いていたんだと気が付くと、スマホを車に置いたまま暫し自然の声を聞いた。林床から鳴り響くカエルの声の名を、私は知らない。無理に調べる必要もなかった。葉と葉が擦れ合って、種類ごとに独得な音を立てている。うなぎ登りに上昇する気温、野山に立ち込める熱波を、山頂から駆けてきた風が吹き飛ばすと、もみあげに滴っていた汗もすうっと引いていった。
ほんの数十分の出来事だけれど、デジタルデトックスの大切さを肌で感じながら道を引き返した。実際この瞬間の焦燥がどうにもみっともなく思えて、何処へ向かってもむせ上がってくるものだから、その後の旅路についてはあまり楽しめなかった。数百年、数千年という期間を経て築き上げられた自然を前に、無力感を増発させて帰りの便に乗るだけだった。上空数千メートルに到達し、先程居た島はもう遠くにある。音楽を聴こうとイヤホンを耳にはめて、忽ち外した。今の私には、電波の介在なく生きる力が必要なのかもしれない。

新紙幣の発行についても、言いようのない寂しさがある。もう何年も、一万円札を「諭吉」と呼んできたというのに。これもまた、歴史の一片として忽然と姿を消してしまうらしい。まだまだ分からないけれど、確実に古いものから処理されていくことは容易に想像がつく。
そこについさっきまであったものが失われてしまうことに、慣れることができずにいる。それは音楽も文学も、技術においても同じこと。目まぐるしく様々な形が変化していて、現存する歴史も時を経て干上がっていくのかもしれないけれど、どんな形でも良いから残っていて欲しいと思う。しかしそれらを残す術は知らないから、たった一人のわがままでしかない。

大学の時にも、友人に同じような話をした。すると彼は私に言った。「その時代の文化が受け入れられないというのは、今を生きる自分も否定することになるのではないか」と。彼もまた私と同じく " 新しいもの嫌い " という気質で頭を悩ませていた。当時はその言葉にヒヤリとさせられたものだが、今ではその言葉がポジティブに聞こえなくもない。手始めとして、流行りの音楽も少しずつ耳に入れるようにしてみる。何となく、置いていかれるようや感覚が抜けたような気もして、依存が故に重荷であった疑心から離れていくようにも思える。時には頭を圏外にした状態で、物を考えたいと思うのだ。

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