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慄える人魚 / 創作

私は、全て知っていたのかもしれない。

北校舎、四階トイレの水道に、血の着いたコンドームが掛けてあった。


誰かに見せつけるように、また見つけてくださいとでも言うかのように、蛇口に弱く掛けてある一景は、捻りの弱い水道の蛇口からしたしたと水が垂れる状況と相俟って、一周回って綺麗とすら思った。その時の私は妙に冷静で、一瞥した後に 切り過ぎた前髪を整えて、トイレを後にした。入れ違いで入ったクラスメイトの後ろ姿を、取り敢えずは振り返って見送ることにする。私が思うに、これから何も考えずに個室へ入って用を足し、きっと私と同じように鏡を見ながら手を洗うなり、その物と対面するのであろう。成長期を飛び越える性徴期、もうなんらおかしなことでは無い。

私達が居るまさにこの場所が女子校であることを除いては。

廊下を暫く通過して、中央に吊られた時計に目をやるタイミングと同じくして、クラスメイトが明らかな焦りの表情を携えて脇を駆け抜けていった。私は全く焦らなかった。何故ならば、私は全て知っていたから。


「まだ話していないことは無いですか」という女性教諭の問いかけに、私は黙って頷く形で返事をすると、そこから先はもう何も聞かれることは無かった。" 偶然トイレに入ったけれども 私は何も見ていないし 気付いていなかった " 
ため息混じりにペンを走らす女性教諭の長い指の袂に、短い言葉だけが手元のボードに貼り着く。

担任をしていた男性教諭がやがて学校から姿を消した。代理で担任を務めることになった女性教諭は 「体調不良」と称していたけれど、たった一片のゴム膜の存在はもう誰しもが知っていたし、それが虚偽の告白であるということも、決して穏やかな理由で無いということもまた、誰もが知っていた。



朝のテレビ番組、眠気なんて知らない、という顔をしたキャスターが意気揚々と占いを読み上げる感覚が、私は昔からずっと嫌いだった。良い一日を、なんていう言葉の末尾はいつだって嘘臭い。結局のところ、寝ぼけ眼に間が持たない朝の食卓という空間に投じられた存在に過ぎないから、自分の星座が1位であろうと12位であろうと、何処か他人事のように思う。

家を出る時間まであと少し、卓上に用意されたココアは湯気を昇らせているのに対してトーストはバターも溶けることができないくらいに乾いていた。伸びきったヘアゴムを使って悠長に髪を結わえる次いでに、冷たいバターが乗ったままのトーストに齧り付く。先のニュース番組が占いを終えると、別のニュース番組に切り替わった。トーストの端を口に咥えたままぼーっと眺める私の目の前で答え合わせが始まった。

" 県内の公立女子校 " 
" 男性教諭 "
" 生徒とみだらな行為をしたとして "
" 性行為の強要を… "

ブツブツ、ブツブツ、とテロップが頭の中に刻み込まれる。文ではなく、小さな言葉で刻み込まれる。私は事件現場に落ちたナイフの第一発見者になったということだ。
私に質問をした女性教諭が頻りに意見を求めたがったのは そういう事だったのかもしれない。横で神妙そうな顔をしていた教頭も、必死で表沙汰にはならないように考えを巡らせていたのだろう。


テレビによって 大々的に報じられたその日から、斜め前の席のクラスメイトは学校へ来なくなった。代理を務める担任が出席簿の呼び名をごく自然に飛ばすものだから、朝のニュースは愚か、担任の存在、彼女の存在すらも無かったことのように感じられる。
休み時間になると、どの場所も "その話 " で持ち切りになった。暫くして流れ着いた噂話は 「トイレでレイプされたらしい」 「出席日数が足りないことを理由に身体を差し出したんだって」  「実は付き合っていたらしいよ」「ホテルに入っていくのを見たっていう人がいる」 「他の先生とも関係を持っていたらしい」などと様々な噂が飛び交って、どれが真実かを見極める暇も与えられない。結局のところ皆真実なんてどうでも良くて、闇雲に思春期の彼是を見聞きしたいだけなのだ、と言葉の端々から感じる。

被害者とされた彼女は、学年でもそれほど目立つ存在では無かった。かくいう私も目立っている訳では無いけれど、授業にせよ、学校行事にせよ、本当に目立った印象も無い。彼女が学校を休んでも、出席を取られるまで気が付かなかったほどである。
運動神経も決して悪く無く、学業成績もそれなりに良い。色が透き通るほどに白くて、青みがかった黒髪が眩しく感ぜられるような、彼女の本質的な美しさを私だけは知っていた。ひょっとしたら気が付いていた人はもっと居たのかもしれない。
ではどうして一軍に属していないのだろうか、いや。一軍に限らず、どうして何処にも溶けていないのだろうか、と考えさせられたものである。今思えば、彼女は自らを何処にも投じようとなんて鼻から思っていなかったのかもしれない。というより、何処にも溶けることの出来ない存在といった方が正しいかも。

よく " 高嶺の花 " なんてことを言うけれど、高嶺の限られた環境を選んで生きているから、いつまで経っても有り触れないのだろう。私達がプールほどの大きさの水面を泳いでいる時、彼女はきっと、きっと、海原を泳いでいるのだ。
たかが英文法を覚えさせる為だけに作られた間に合わせの構文を読まされている英語の授業中、教科書に描かれた人魚の挿絵。それが彼女によく似ていて、指名されているのも気付かぬままそんなことを考えていたことがある。彼女は、人魚だ。


いつからか腕に包帯を巻いて登校するようになった彼女の姿と、後ろにプリントを回す時、必ず身体をぐっと曲げて丁寧にそれを渡す光景だけが瞼の裏側にこぢんまりと張り付いている。

体調不良を理由に水泳の授業の欠席を宣言した彼女を追って、私も休むことにした夏の一幕。
なぜ?なんて言われても言葉になり得るそれらしい理由も無かったけれども、強いて言うなら、また今思えば、彼女の腕にぐるりと巻かれた包帯があまりにもアンバランスで、気になって仕方が無かったという所だ。
担任兼体育の担当教諭は若くて緩くて、髭が濃い。水着姿になって入水する、という生々しいシチュエーションが繰り広げられる水泳の授業となると、女子の欠席理由など「あの日なので」と言うだけで通じて、教室待機も許されていた。数年前に隣町の中学校で見学中だった生徒が熱射病で命を落とす、なんて事件があったものだから、夏の最中の見学者は完全放牧状態だった。
プールが位置する校庭の端から教室へと帰る道すがら、他の教室ではごく真面目に授業が行われているというのに、私は特に理由も無く教室に帰っている。その光景を三人称視点で見つめていると可笑しくてたまらなくて、喉の奥から込み上げて来る笑いを必死に噛み殺しながら廊下を歩いた。

教室へ入ると、窓辺の席にちょこんと座った彼女は外を見つめていた。頬杖を着いた腕に巻かれた包帯がもとより白い彼女の腕と交互に視界に入って目がチカチカする。席に着きながら、黙ってそれを見つめていた。帯の隙間から色が滲んでいるのが見えた。7月の空気が冷房に負けていない。水泳の授業に出て、水をたっぷりと浴びた方が良かったかもしれない、と思いながらプールから響く声を聞いていた。

自主学習のルールを守るフリをしながら本を開く。花柄の栞が挟まれたページに目を通しながら、さりげなく投げ掛けた 「腕、どうしたの」という質問の一投目は隣のクラスの音読の声に掻き消されてしまい、くぐもった音に反応して顔をこちらに向けた彼女と目が合って、暫しの沈黙が生まれた。すかさず、二投目の質問をする。「その腕」と言いかけたところから 彼女の返事が投げられる。

「誰かに助けて欲しかった」

これに対する返答は、と自分の中で考えを反芻しているうちに、ごく自然と時間は経っていった。何も言えない、ままだった。風に煽られたカーテンが大きく揺れるまで、揺れたカーテンが窓辺に積まれたファイルをことりと薙ぎ倒すまで、彼女が手元の英単語帳を閉じるまで、また突如として現れた担任教諭に呼ばれるまで、そして、廊下の奥に消えていくまで。

出席日数を武器にして十代を弄んだ人間の狂気性はもちろんのこと、毎度のこと水泳の授業において彼は水着姿の女子をそういう目線で、またああいう目線で見ていたのか、と考えるととんでもない悪者であるように感じられた。
ただ、そんな私も女性教諭に詰問されながらも夏のある数瞬のことを言わずに黙っていたし、テレビのキャスターやコメンテーターも、「無くしていかないといけませんね」「胸が痛みます」という言葉を吐き出しながら永遠に、慄える彼女の姿を触れ回っている。
血肉の目交いに彼女が溺れて行ったその日から更に追い打ちをかけるように、ずるずると水の底に押し込めている。ひょっとしたら全員悪者なのかもしれないし、こうしている間も彼女は何処かで慄え続けているのかもしれない。

彼女も、彼も居なくなった世界はまた元通りの生活に溶けていくわけで、当初は抱けなかった言葉も、感情も、今となっては抱けるような気がする。腕に巻かれた包帯も、本来ならばこっそりと処分されていたであろう避妊具が見せつけるように蛇口に結えられていたのも、彼女なりのSOSだったのだろうと理解することが出来る。
「声が出せなくなる代わりに、想い人へ近付くことを許された」という人魚姫の一節さながら、何かを捧げて泡になった彼女の慄える身体が、誰も居ない席にうっすらと見えるような気がした。





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