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【雑記】パスタを1本食べる。幸せを知る。

深夜に、ふと思い立ち、湯を沸かし、一本のパスタを茹でた。

電気もつけない真っ暗な部屋の中、キッチンの灯りだけを付けて
独りぼっちのパスタを口にする。

決して高級なパスタではなく、我が家では ”コスパの代表格” として君臨するパスタだったが、ゆっくりと口の中で確かめた。

小麦の香り。
温かく、優しい食感。

久しぶりの感覚。

ここ一週間、何度も口にしたはずのパスタだったが、
初めてのような気持ちだった。

パスタを茹でる前、何となく目の覚めてしまった私は
ニュースサイトを眺めていた。

そんな中、目に留まったのは著者がうつ病や多忙な毎日と闘いながらも懸命に生きる漫画。

こういった経験は多かれ少なかれあるもの、という認識で50%の共感と50%の好奇心という名の確認作業で閲覧をしていた。

その漫画の中ではたびたび、著者が好きな食べ物を「ご褒美」として買い、それを食べて幸せな気持ちになる描写があった。

「好きなものを食べて、幸せな気持ちになる。」

それは言ってしまえば至極当然の話で、それは私もわかっているのだが、
なぜだかとても新鮮で、自分にはない感情を見たような心地になってしまった。

美味しいものを食べることも、自分へご褒美を与えることも私は大好きで、日常的にそれをしていたはずだった。

塩辛いものが好きな私は最近では自分の作る料理を妙に塩辛く作ってしまっていたし、味の濃いものばかりを積極的に摂ってしまっている。

それでもやはり一時的にも心は満たされず、”きっかけ”はあっても”結果”はとても薄味で、ほとんど味のしないものになっていた。

再び口にしたパスタを確かめる。念入りに。
何の味付けもしていなかったが、美味しい、と思った。

私は昔からパスタが好きだった。
親に連れられてチェーン店のパスタ屋に行くとなれば大喜びで、
親の顔を窺いながら今日は明太子にするか、カルボナーラにするか、普通盛りか、大盛か、と、うきうきと考えていた。

あの頃よりも多くの自由や選択肢を得た私は、
あの頃よりも多くの「幸せ」を掴めるようになった私は、
なぜ、あの頃よりも不幸になっているのだろう。

得難い選択肢ではなくなったからだろうか。

苦労して得たものや希少なものには人間はとびきりの価値を感じるもの。

だからこそ、私は幸せを「普通」に格下げしてしまったのだろうか。
それならば、私は自ら不幸になっていることになる。

たくさんの境遇や環境に嫌悪感を感じていても、一定の割合でそう感じる自分のアンテナにもその理由があるようだった。

しかし、私には幸せの不感症の原因がアンテナの誤受信のほかにもう一つ思い当たる節があった。

それは、人間の感情における恒常性のようなものだった。

苦しい家計や、ギスギスした人間関係。

心をいじめる原因は人間の生活にはたくさんあり、そんな生活するうえで大きすぎるノイズにもなりえる出来事にも立ち向かえるように、心は「耳を塞ぐ」ことがある。

それによって心のさまざまなアンテナやセンサーは鈍感になり、巨大な不幸は少し小さく、小さな幸せはそれに合わせてより小さくなる。

つまり、大きなマイナスを0に近づけるために全体を縮小した結果、もともと小さかった幸せもともに小さくなってしまっている、ということである。

嫌な声が届きにくくなる反面、嬉しい声もまた聞こえなくなっていく。

私はそのまま、パスタを3玉茹でた。
たくさんのソースを常備していたが、すべてそのまま食べつくした。

きっとアンテナはすぐには直らない。

それでも不具合に気づけただけでもだいぶましだと信じたい。

疲れても走り続ける人生。
意識しなければ、立ち止まっていないことにさえも気づくことが難しい。

美味しいパスタをありがとう。

幸せは一本のパスタから。

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