▼北陸への旅▼③:富山市内の神通川の今昔
3月末に、富山県の黒部川流域に訪れる所用を済ませ、その後西に向かってぐるっと回る旅を続けています。前回は、富山市内にある、富岩運河の環水公園や、船に乗るクルーズを楽しみました。(前回の記事はこちら)
今回は、そこから、これは神通川を見なきゃ、と思って、夕暮れの神通川沿いを歩き始めたので、そのもようをお伝えしたいと思います。
■神通川と「馳越線」のものがたり
ここで、今回歩いている神通川(じんづうがわ)のことを、簡単にご紹介したいと思います。国土交通省のホームページなどに、詳しいことは掲載されています。
かつては、神通川は富山市内中心部付近で大きく蛇行し、市内中心部を横切っていました。その川の流れは、富山城の「天然の濠」の役目を果たしていましたが、相次ぐ洪水に悩まされ続けていました。
そこで、蛇行した流れを直線化する新しい川(これを「馳越線(はせこしせん)」と呼びます)を掘削する工事を、明治時代のオランダ人のお雇い外国人で、日本国内の明治時代の治水事業に大いに貢献した、デレーケさんが提案し、それを採用しています。
そして、黄色の昔の川は、「廃川地」となり、広大な空き地(とはいっても窪地)ができ、未利用地となっていましたが、その後大正時代になって、前回紹介した富岩運河が掘削され、その土でこの廃川地を埋め立て、そこに今の県庁や市役所などを持ってきた、という歴史があります。そのあたりは、廃川沿いを流れる「松川」の遊覧船のHPに、詳しく記載されています。
廃川地が広がっていた頃と、現代の富山の町を「今昔マップ」で比較してみましょう。馳越線は、上記のアニメにもある通り、最初は細い流路を、洪水のたびに自然の力で広げていき、次第に新しい流路に付け替えるという、時間のかかるやり方をしていたので、この地図の時は、両方の川の流れがあり、富山駅は「中州の中」のような場所になっています。
■神通川を歩く
さて、前置きはここまでにして、神通川の馳越線の終点付近に前回の散策の最後にいました。夕暮れ時を迎えた川沿いを歩きます。
そして、富山北大橋を越えると見えてくるのが・・
新旧鉄道橋が3つ平行している橋に出くわします。実は、JR高山本線の「新神通川橋りょう」は、明治41年(1908年)に完成した、昔の北陸本線の橋梁をそのまま転用しているものです。あいの風とやま鉄道の橋梁は、北陸本線が複線電化された際(1959年)に新たに作られた橋です。さらに上流側に、北陸新幹線の神通川橋りょう(エクストラドーズド橋)が2015年に開業しています。
この北陸新幹線の神通川橋りょうは、建設当時に少し仕事で携わった場所。高山本線の古い橋脚の真横に新幹線橋脚を立てるので、細心の注意を払って施工する計画をしていました。
富山空港が、神通川の少し上流にあります。富山空港は、何と「日本で唯一、河川敷に滑走路等がある空港」なのです。空から見ると、「新幹線橋梁」の文字は、よく見えるのでしょうね。
実は、この新神通川橋りょう、明治41年の頃は、まだ馳越線が完全にできていなかった頃であり、当初米原からの北陸本線は、富山駅の少し西側に初代の仮駅ができ、馳越線の工事が進捗するのを待っていた形で、この橋ができたことで、今の富山駅が完成したという流れです。「新神通川」というのは、「馳越線」の橋、だったからなのでしょうかね?
富山大橋の前身は、「新大橋」「聯隊橋」と呼ばれました。今の市電の終点は、富山大学前ですが、富山大学の五福キャンパスは、かつては旧陸軍の歩兵連隊があった跡地になります。
■松川を歩く
すっかり暗くなったので、今日の探索は終わり。
■夜の富山のボーナスステージ
今日の探索はここまで。明朝、朝の散歩で、松川→いたち川の散策を続けましたので、そちらに続きます。
■終わりに
神通川を川沿いに歩きました。馳越線としてできた明治の河川、架かっている橋も何だか歴史が深く、とても面白い場所だと再認識しました。廃川の跡に流れる松川も、かつて舟運に使われたりと、富山という街が発達している歴史の一面を感じることができました。
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