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★東日本大震災:被災地を訪ねる★①東松島市・野蒜地区【後編:旧野蒜駅から廃線跡を歩く】

出張のついでに訪れた、宮城県東松島市の野蒜地区の津波被災地域。前回の記事で、その概要と仙台駅から「仙石東北ライン」経由でたどり着いた様子を書きました。(前回はこちら)

今回は、夕暮れの中、津波被災エリアの震災遺構である、旧・野蒜駅やそこから伸びる廃線跡を歩いた模様をお伝えします。

まずは、野蒜地区周辺の津波による震災エリアを国土地理院地図から見てみたいと思います。

野蒜地区の津波被災による浸水範囲(水色)。昔の駅のあった、
「震災復興伝承館」付近はすっぽり水色に没しています。

■被災エリアを目指して歩く

前回記事で紹介した、野蒜駅の地下道を過ぎた先にある高台のロータリーから。
今からこの下側にある、津波被災エリア周辺を歩きます。
ところどころに家屋が建っているエリア。
電柱には、「小学校」と書かれたプレートが。
今はここには小学校は無いので、震災前の街並みの記憶でしょうか?
東松島市のマンホール。
旧鳴瀬町時代のキャラクター、「縄文げん」「げんちゃん」の模様だそうです。
着いたのが、東松島市東日本大震災復興祈念公園。
皇后陛下御歌碑
【野蒜とふ 愛しき地名 あるを知る 被災地なるを 深く覚えむ】
こちらは、復興を祈念したモニュメント。
【鎮魂・復興・感謝 東松島一心】

■震災遺構・旧野蒜駅を眺める

震災復興祈念公園の中心にある、津波で被災した、旧・野蒜駅を見学しました。但し、駅舎を利用した記念館の営業時間が終了してしまったので、残念ながら外観のみの見学となりました。

駅の遺構。電車が来てもおかしくないように感じましたが・・、
よく見ると屋根の雨どいが変形するなどの被害が。
奥のレールが変形しているのが見えます。
よく見ると、津波の力で曲げられていることを認識できます。
レールが変形し、照明柱が倒れています。
旧駅舎を利用した、震災復興伝承館。津波の高さは1階の上まで押し寄せたようです。
駅舎が無い場所が波の力が大きかったのでしょうか?
公園の駅跡のすぐ隣には、もう一つ建物が。
「野蒜岩材碑」という石碑。
石材で作られた蔵が津波に耐えて残ったようです。

野蒜は、昔は石材を切り出すことが主要産業だったようです。それを示す石碑が残されています。

こちらは、東名運河。

東名運河は、野蒜駅からほど近い野蒜築港跡から伸びる運河です。野蒜築港は、明治時代に建設された、わが国最初の近代港湾と言われる港。わずか6年で台風により被災し、放棄されました。仙台湾にある運河群(北上運河、東名運河、貞山運河)により、仙台湾を行き来することができる水路が出来上がっていますが、津波で大きく被災しました。野蒜築港と運河群は、「土木学会選奨土木遺産」に選定されています。この地に来た一つの目的は、これらの土木遺産がどのように残っているかを確かめたい、と思ったことですが、今回は夕暮れなので、東名運河を眺めることしかできませんでした。

【野蒜築港に関連する土木学会の記事】

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/2001/86-01-0066.pdf

土木学会誌 2001年1月号より

■仙石線の廃線跡を歩く

夕暮れ時を迎え、だんだん暗くなってきましたが、せっかくここまで訪れたので、少し廃線跡の線路を鳴瀬川に向け歩いてみたいと思います。

キロポストが残る、自転車・歩行者専用道を歩きます。
擁壁に「1986-10」の文字が。旧国鉄時代からの施設です。
この場所は、野蒜駅から少し離れた切通部。少し上り勾配になっています。
震災当日、下り列車が停車した場所。
奇跡的に高い場所なので、列車は被災を免れました。


「35」と書かれたキロポストがありました。
鳴瀬川に向かう高架橋を目指す仙石線。
銀河鉄道のように真っ暗になってしまったので、駅に戻ります。
線路沿いの坂道を高台に向けて上ると、野蒜駅に戻ります。
ロータリー越しに見た、高台の住宅地。
ご覧の通りあまり人通りがありません。
東松島市のマンホール。
こちらは、「イートくん」と「イ~ナちゃん」です。
ポケモンのカラーマンホールもあります。
野蒜駅に到着。地元の小学生が、地域の魅力を紹介してくれています。

■終わりに

出張の空き時間に訪れた野蒜駅前の散策。夕暮れだったせいか、震災遺構や復興して高台移転した町は、少し寂しげに見えました。奥松島と言う素晴らしい観光資源を持ち、野蒜築港という土木遺産を持つこの街。もう少し活性化させて、震災後の街を元気にできればいいな、と思いました。

この後、夕食を食べに、塩竃の街を訪れますので、引き続きお楽しみに!

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