映画観賞記録 「きみの鳥はうたえる」


*「きみの鳥はうたえる」(2018)*

函館郊外の書店で働く「僕」と一緒に暮らす失業中の静雄。「僕」と同じ書店で働く佐知子が加わり、3人は、夜通し酒を飲み、踊り、笑い合う。だが絶妙なバランスの中で成り立つ彼らの幸福な日々は、いつも終わりの予感と共にあった。

こういう映画ってどうも、自分とは正反対の道を辿って展開されていくのだなと感じてしまって、勝手ながら苦手な意識を持っていた。

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主人公は、書店でアルバイトをしていて、夜に帰ってくることがしばしば。帰ってきて、真っ暗の誰もいない部屋に、「ただいま」と呟く。そして冷蔵庫を開けて、氷をかじるのが、彼のルーティーン。
うん、アルバイトって、そんなものだよな。とも思ったけど、真っ暗な部屋の中、冷蔵庫の光だけがひとりでに光っているのも、何だか寂しすぎるように感じた。

バイト先で知り合った佐知子とは、体で繋がった。
体で繋がったと言ったら、あまりに先が見えなくなりそうだから、そんな言葉使いたくないと思った。そのくらいに、「体で繋がる」って言葉は、彼には似合っていなかった。

彼は、シズオという友達と一緒に暮らしていた。シズオは主人公と同様に、優しい性格をしていた。
時折見せる笑顔は、ただ人に対して笑いかけている顔ではなく、主人公と心を通わせている証拠となるような笑顔だった。

3人は夜通し遊んだ。
私には、この夜通し遊ぶってのが定着していないから、あまりにも分からない。でも、3人の遊んでいる姿を見たら、夜だからこそできてしまう表情もあるんだなと、何だか羨ましくも思った。

アルバイト先の店員の1人と、意見が合わない場面もあった。意見が合わないというか、単純に、その店員の無知さが浮き彫りになっただけの場面のようにも思うが。主人公の純粋な気持ちがぶつけられたシーンだった。そう、「純粋」って言葉は、彼を表す言葉の1つなのかもしれない。

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人間には表と裏があるっていうのは、大人になってから知った。

裏では死に物狂いで働いていたとしても、表ではそんな顔を見せずにいる人。それとは逆に、裏では楽をしていたとしても、表ではいかにも頑張っていますという顔つきの人。見破ることが出来る人もいるだろうが、見破れずに、真実を知れない人もいるだろう。

この主人公は、そんな嘘っぱちを見破ることが出来る人だと思った。
でも、そこで終わらない。

もし真実を知ってしまったとしても、彼は透明人間となり、真実をふわふわと中に浮かせることが出来る。悪い真実は海のほうへ流し、良い真実はその場に留めておく。

それが出来るのが、彼だと思った。

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もう1つ、彼を表現する言葉がある。それは「繊細」であるということ。
最後の場面で佐知子は、シズオと付き合う関係になったことを主人公に明かす。その場面でも、彼は顔色をかえず、ただ佐知子に寄り添うように「2人を見ていれば分かったことだ」と言う。

場の空気ってもんを分かって、それでいて繊細な主人公の姿に、惹かれている自分がいた。

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私自身、人の持つ真実を、そう簡単に分かってしまうような人間ではない。
でも、主人公のような人が1人隣にいるだけで、外側から守られているような気がして、外側へと自分を解放できるように思うのは、気のせいだろうか。

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映画の最後まで、主人公の名前は分からなかった。
しかし妙に「シズオ」という響きだけが頭に残る。

主人公は「シズオを通して佐知子を見れる」と、佐知子からシズオとの関係を話したあとに語った。
それほどに彼は、シズオの全てを含んだ存在だったのだろう。

シズオが主人公に似ているのではない。
主人公がシズオに似ていたのだ。だから彼らは、笑い方、仕草や声で、お互いが分かってしまうような関係性になることが出来た。

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空気になってしまう人。

悪い人では決してないだろうが、良くないということも、何となく分かる。

でも、主人公は、自分の表にも裏にも、両面に人を投影している人であり、そんな姿も悪くないなと思えてしまった。


最後のシーンで、佐知子への本当の思いを告げたあと。
この先の日常は、いつもと変わらず、明るくもなければ暗くもないだろう。

でもやっぱり、あの夜通し遊んだシーンを観せられた私からすれば、3人の日常は変わらずあって欲しいと思ってしまう。





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