タイタニックと教室の片隅の小さな私
25年前に大ヒットした映画「タイタニック」のリマスター版を観てきた。
映画の懐かしい映像に触発されて、25年前の自分がどこで何をしていたのか鮮明に思い出すことができた。この映画が公開された1997年、一緒に映画館に足を運んだ当時の友達とは、今は誰一人連絡先も分からず、どこで何をしているのかも知らない。現在の私の親友たちとはもう長いつきあいだが、1997年の頃はまだ知り合ってさえいなかった。そう考えると、25年という歳月は短いようで長く、あまり変わらないようでいて、人生を決定づける大きな変化があったのかもしれない。
1998年当時、つまりこの映画が1997年12月に公開されたので、翌年アカデミー賞を取るまでの一年間、アメリカでの「タイタニック」の盛況ぶりは凄まじいものだった。学生だった私は、大学の授業でこの映画について何度ディスカッションさせられたかしれない。学生だけでなく教授たちも、みんな「タイタニック」に夢中だったのだ。今みたいにSNSがなかった時代だ。ネットでバズっているトピックについて語るような感覚で、大学の授業で取り上げられた。
私の担任だったユダヤ人の教授は、女性学の視点で「タイタニック」を語りましょうと提案し、途中まではお決まりの意見があがった。主人公ローズがフィアンセや母親にがんじがらめにされて、女性の自由がない当時の上流社会の背景をこの映画はよく描いている……とそのような議論だった。しかし、授業が終盤に差し掛かるころ、イタリア系の男子学生が怒りの声をあげた。
「女と子供ばかりが優先的に救命ボートに乗せられて、男たちが次々に命を落としていくのが不平等だと思いました」
そう彼は意見を述べたのだ。
そこからディスカッションはいよいよ白熱していき、そもそも「タイタニック」はジャックとローズの恋物語というのは建前で、苛烈な貧富の差を描きたかったというのがこの作品の本音ではないのか、という議論になっていった。貧しい三等室の乗客は、女や子供であっても救命ボートに乗ることが許されなかった。さらには、あの巨大な船を動かすためのボイラー室で石炭をくべ続ける働く労働者たちは、「奴隷」という呼び名で皮肉的に表現されていて、彼らの寝台には毎晩のようにネズミが出る。それに比して、ローズたち上級乗客はオーケストラの演奏に合わせてグルメパーティーをする日々を送っている。
白熱した教室で、ユダヤ人の教授が最後に締めくくった言葉を、25年ぶりに思い出した。
「タイタニック号の生存者のなかに、のちにニューヨークから出馬し、上院議員になった女性がいました」
私はその言葉を聞いて、私のなかでの「タイタニック」が、レオ様が演じる流行のエンターテインメント映画から、生々しい現実味を帯びたドキュメント作品に変わった。実際にあの悲劇を経験したら、沈みゆく船の上で貧富の差によって人の命が当たり前のように選別されていく、あの不平等を目の当りにしたら、その後の人生が影響されてしまうに違いない。生存者の女性はきっと、救ってもらった自分の命を、社会を変えることに捧げようと一念発起したのかもしれない。2023年の今でさえ、女性が政治家になることは大変なのに、当時の女性が上院議員にまで上り詰めることは、並大抵のことでは叶わない。それほど彼女の意志は強く、タイタニックの経験を糧にしようと心に決めていたのかもしれない。
当時の私はニューヨーク州立大学の教室の片隅でそんなふうに思い、映画の生存者のその後の人生を色々と想像してみた。そして、歴史はただ流れていくだけではないのだなと思った。それは必ずのちの人々に変化をもたらすのだ。今もそうだが、当時のニューヨークも民主主義について人々が考え、意見を交わしていた。そうした当たり前のことが叶ったのも、タイタニックのような悲劇を糧に、社会を変えていったからなのだ。
25年前の教室と自分の小さな姿が、映画を通して脳裏に蘇った。そして私はこれから先の25年間で、何ができるのだろう? 悲劇を乗り越えたタイタニックの生存者たちがそうしてきたように、たとえ微力でも私も何かを成し遂げたい。心からそう思った。
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