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「言うは易く行うは難し」円覚寺座禅会で考えた5つのこと

本日、北鎌倉の円覚寺にて座禅会に参加した。
慶應の知人である貫洞聖彦さんに誘っていただき、彼と共に座禅をするのはこれで2度目。前回は半年前、多国籍な6人ほどのメンバーでの座禅会だった。

(前回)
ぼくは事前に酒を体に入れていたためか、座禅中の身体の揺れの激しさが通常ではなかった。身体と精神が完全に分離して、座禅に潜ろうとすればするほど、体が暴れた。しかし、座禅後の精神の研がれ方もすごく、溺れた後に飲み込む空気の鮮度は、通常のそれとは違った。以来、自分で座禅をするときは、時々ではあるが、酒でアルコール、珈琲でカフェインを摂取してから行うことがある。これは一種の麻薬かもしれないので、個人の責任でトライしてほしい。

今回、円覚寺での座禅会は2回目ということもあり、昨晩から禁酒をした。まわりに迷惑をかけかねないと思ったからだ。そして、今回座禅をおこなって、考えたことや、和尚さんと話したことの一部を抜粋してみる。


1:精神の物質化とエゴの増大。

座禅(やマインドフルネス)によるエゴの増大が起きるという論文がアメリカで発表されたらしい。なんのための座禅なのかわからないが、それを説明するのに「精神の物質化」という言葉が場では使われた。

簡単にいうと「いい車、でかい家、高級な服、いい女」みたいなものを求めるのと、同列に、座禅によって「高次の精神」を求めてしまう人がいるらしい。その気持ちは、正直わからんでもない。が、客観的にみて「嵌ってしまったな」というのは、理解できる。

「座禅をしたから、何年もやっているから、俺はあなたより悟っている」と、他者に対して「ぼくのすごいんだぞ」というマンティングは「俺の方が金持っている。お前よりいい家に住んで、こんな綺麗な奥さんがいるんだ。」といった発言の愚かさに似ている。現実問題、そういった人を和尚はたくさん見てきたそうだ。

うろ覚えだが、「座禅を行った人の半数以上は、エゴの増大が確認された」という論文が発表されたらしい。ファッションとしての禅、マインドフルネスの波及は、世界をよりエゴに溢れた競争社会にしていくのかもしれない。


2:体と心の緊張をとく

「体と心の緊張をとく」という言葉は、よく聞く。し、自分も使っている。だが、実際にこれはどういう意味だろう。心と体が、どういったものか、考えて見ないと、これはかなり抽象度が高く、なにも指し示していない言葉だ。この言葉以外に「体に意識を集中させる」とか「普段から心がける」といった言葉。言うは易く行うは難しの典型だと思う。

普段、ぼくたちは、あらゆる場面で、心とか体という言葉を使い、その重要性を説く。けれど、きちんと考えてみると、よくわからない。のに、出回っている。なぜなら、その言葉を使う?安心してしまうからだろうか?

「よし!意識しよう!」とか「はい、心がけます!」と声に出してみるものの、その後ぼくは実際何をしているのか。「意識」や「心がける」の内包を分解していかないと、何も進んでいない。声だけが落とされていく。

心と体を理解できる対象と思っていない。分離できるとも、思っていない。そして「それを考えたり、分離したりしている、この主人は一体誰だ?どこにいる?」とよく考える。ただ、そうやって投げ捨てるように言葉を使っていると、いつのまにか、心も体も、近いだけの、遠い存在になってしまう気がする。


3:力を抜くこと、は、力を入れること?

ぼくは昔から「力を抜く」の意味がわからない。実践できた気がしない。なぜなら「力を抜く」というその行為も、力をいれることだからだ。一種のパラドックスかもしれない。何故ぼくがこう考えるかというと、意識的な行為には力(筋肉)が伴うものだと考えている。そのため、脱力をするためにも、脱力のために筋肉を状態Aから状態Bに移行させるために、力を使う必要がある。

力を入れることは簡単だが、力を抜くことは難しい。ぼくが力が抜けた状態を実感する時というのは2パターンあり、

「力を入れようと思っても、力をいれることが叶わない」

「力を思いっきり入れてから、そこからそれをやめること」

この2種類でしが、力が抜けた状態を近くしたことがない。「力を抜く」とは、一体、どういうことだろうか。


4:座禅のスタイルは、現代に適応するように調整される

今日聞いたところによると、数ある分類の中のひとつの分類では、座禅には二方向ある。ひとつは、体を緊張状態に持っていくもの。もうひとつはリラックスに向かわせるもの。後者が今は日本で流行っているものである。

前者について述べる。昔は、仁王像みたいに、顔や身体にやる気(緊張?)を走らせた状態での座禅(=仁王禅)がふつう(?)だったらしい。顔に力がはいってないと「おい!気合が入ってないぞ!!」と修行の場では怒気が飛んでいたらしい。

ぼくが今回座禅を体験させていただいた円覚寺でも、5年ほど前までは、前者の仁王禅をやっていたが"時代にあっていないと和尚が考えたため"現在ではリラックスに向かうための座禅を、"一般向け"では主にやっているらしい。そうしたように、いま巷で流行ってる座禅というのは、一般人向けにかなり改良が加えられている。

5:座禅の姿勢は、現代人には緊張をしいる。

これは上に書いた「3」の続きになる。なぜ、現代では緊張状態を用いる仁王禅を一般向けにはしていないかというと、座禅でわざわざ緊張をさせなくとも、今の人たちは、ただでさえ、日頃から緊張しているからだそうだ。

すでに緊張していて、脱力のできていない体に、緊張をもちいる仁王禅をしたところで、それは酷だ。という話らしい。ぼくは、正直、かなり体が緊張しているように感じる。ほぐし方もわからないし、体をやすませる座り方や立ち方ができない。

椅子の生活になれてしまった現代人あるあるだそうだが、正座でつかれる。あぐらで疲れる。これは、じぶんで自分の体のバランスを、とれなくなってしまって、椅子の背もたれや、腰が地面から浮いてると、楽だとかんじるから。でも、頭で楽だと感じる姿勢と、実際に体に負荷がすくない姿勢はかなり違う。

ぼくはこの2週間、座り方や立ち方の矯正をしているのだが、そのおかげで、全身がばきばきである。これまで感じなかった、背中、肩、首の貼りを感じるようになった。頭で考えることと、体で実際にやってみることは全然違う。

緊張をほぐすために、日々の時間をもっと投入しようと思った。
例えば、温泉、湯船に浸かる、ストレッチをする、運動をする、泳ぐ。などなど。体の緊張と、心の緊張は繋がっているそうだ。ぼくは、まだ、それを実感した時に言葉にしたことがないけれど。ほぐしていこう。


6:心は生き物であり、支配できる家畜でもペットでもない

2年前、好意を寄せていた人と座禅をしたことがあった。その人の佇まいが美しく、凛としていたので、ぼくの気の散りようは恥ずかしいほどだった。だけれど、そういう一つ一つの煩悩や、じぶんの愚かさが、輪郭を持って認識されたことで、その外側に出ることができる。

欲や煩悩を、くだらない、とか、理性的じゃないなどといって、覆い隠しても、それは隠れているだけだ。解決されたのではなく、蓋をしているだけ。これを積み重ねると、いつかタガが外れるらしい。

ぼくは「大丈夫」という言葉にも、この事実から目を背けているニュアンス感じる。日々の怒り、憤り、恥も一緒で、隠すのではなく、それを認めまじまじと体験し、終了させることが、ぼくには、適してるのかもしれない。そう考え始めた。言うは易く行うは難し、であるのだが。欲に忠実になり、煩悩としかと対面し、そしてそれを捨てていくこと。座禅との向き合い方を変えていきたい。心は生き物であり、それを抑え込めるペットではない。


7:座禅後の帰り道だからといって食欲物欲はわく

冒頭に書いたが、今日は禁酒をしてから座禅会に向かった。そのおかげか、座禅を終えての帰り道。無性に酒が飲みたくなった。「赤ワイン」「飲みたい」この2語を無限に帰りの電車で反芻しながら、家に向かう。藤沢駅で乗り換える時に、目の前にカルディを見つけた。ぼくはそこで赤ワイン、生ハム、ソーセージ、燻製ベーコン、レバーを買い込んだ。

欲を無視することと、欲を抑える/支配することは、全く違う。だから、買ってみることにした。座禅を終えた直後だからといって「俺は今悟ってる。だから、食欲も、物欲もわかないんだ」とかつぶやいて見たが、無理だ。欲はある。溢れている。それとどう向き合うかだ。実際に、昼からほとんど食べておらず、お腹が空いていたので、買ったものは、家に帰ってすぐに食べた。しかし、食べ過ぎることは、抑えた。

欲は、どうしても出てくる。それを、どう適切に、向き合うか。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。