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「人の性(さが)」がつくる世界の悲喜こもごも

ある川辺にサソリがおりました。

「向こう岸に渡りたい」と思って、どうしようと考えていたのです。

丁度そこへカエルがやって来ました。

サソリはカエルに
「俺をおぶって向こう岸まで運んでくれないか?」と頼みました。

カエルは
「冗談だろう。お前は俺を刺すに決まっている」
と答えました。

それに対してサソリは
「僕を乗せている君を刺したら僕が溺れて死んでしまうじゃないか。そんな馬鹿なことをする訳無いよ。」
と答えました。

カエルは
「言われてみればそうか」
と納得し、サソリを乗せることにしました。

ところが川の真ん中ほどに到達したとき、
カエルは背中に鋭い痛みを感じました。

息絶え絶えにカエルはこう言いました。
「どうして刺した!お前も俺も死んでしまうのに」

「ごめんね。わかってはいるけどやめられない。僕はサソリだから、それが俺の性(さが)なんだ」

そうして二匹は並んで沈んで行きました。

この『サソリとカエルの寓話』をご存知だろうか?
この話の教訓は何だろう。
昔、植木等さんがスーダラ節で軽快に歌っていたが、ヒトの性(さが)は
「わかっちゃいるけどやめられない」
のだ。

それがたとえ命に危険性があったとしても性(さが)を前にすると

「どうでもいいですよ」
となってしまうのだ。

僕の会社の女性社員の話

「何か痩せないんだよね」
コロナ禍でデスクにいることが増えた僕は、女性社員のガールズトークがよく耳に入ってくるようになった。

今まではそんなに気づくことはなかったが、結構な割合で女性たちは間食をしまくっていることに気づいた。

うん笑
しまくってるよね?

「ずっと何か食ってるな」
普段から間食を一切しない僕からすると、このように感じてしまう。
少なくとも僕の会社の多くの女性社員は、出社後にコーヒーと一緒のタイミング、ランチの前、ランチの少し後、3時のおやつの時間帯、終業前など間食が止まることはない。

それがいっぱい食べているのではなくて、少しずつ食べている。
ドラえもんのように、鞄や机の中に「チョコレートやビスケットやグミ」などが入っていて、慣れた手つきでササッと速やかに少量取り出してパクリッ!と。

そして、ガールズトーク。
「何か痩せないんだよね」

おいマジか!
と感じるが、こっちに話をふられた時は
「んー、そうかなー?いつも見てるから分からないケド…」
とハッキリとした回答は控える。

ただ、そういう女性も会社の健康診断前などは真剣に
「これからは間食をやめよう!」

と感じると思うが、喉元過ぎればなんとやらで直ぐに「あー腹減った」というタイミングで

目の前にはポテトチップスの袋が……。

結局食べてしまう。

「間食」でググると、4番目ぐらいに
「間食 太らない」という候補が出てくる。

つまり「間食はしたいけど、太らないお菓子」を欲しているということだろう。

いやいや、そんな都合良いものないでしょって笑

「だいたひかるさん」の性(さが)について考えてみた

「何とか安定期に、辿り着くことができました!」 

数日前、だいたひかるさんの妊娠経過の良情報を目にした。この段階で「おめでとうございます」は違うけど、まだまだ安心できない日々を自身の体調に気を配りながら頑張って欲しいと思うし、影ながら応援しています。

自身の命の危険があっても高齢出産の道を選んだことに世間では賛否両論があるようだ。どの選択が良いかは、当然ながら夫婦の問題なので他人がとやかく意見するところでもないし、結果として二人で決めたことが一番の幸せだと思う。

僕はおっさんだし当たり前だが妊娠も出産も経験がない。これからもない。女性の妊娠に対する気持ちも全く分からない。

それを自覚した上で1つだけ、、、。

「女性としての限られた時間を後悔しないように、行動したほうが後々の人生が変わってくるんじゃないかなと思います。
自分の人生の中で何が大事なのか、自分が取りに行きたいものがあるならば、1取りに行くものがあったら99捨てる覚悟じゃないと、欲しいものがつかめない時があるんですよ。」
(だいたひかるさんの言葉)

ここは、生意気にも少しだけ分かる気がしたので、ふれてみたいと思った。

ウルトラマラソンのゴールまでのプロセスには「人生の豊かさ」がある

僕は毎年、丹後100kmウルトラマラソンに参加している。

日中は30℃を超える環境の中、4時30分にスタートし、標高250〜400mの山を3つ超え、途中舗装されていない道を走り、時間制限に追われながら100km先のゴールを目指す。

その一連の行程で得られる特殊な感覚は、何者にも代えがたい。 

というか、基本的にキツい。

暑いし、苦しいし、胃が飲食物を受け入れなくなるし、身体中が疲労困憊で全てが痛い。後半は歩いてる方が速いペースにまで落ちる。

約12時間も走り続けるのは「楽しいか?」と言われたら、とてもではないが万人におすすめできない。

まして天気に恵まれず、大雨でビショビショになりながら、風景にも恵まれず単なる苦行になるときだってある。

だがね。それがいい。
それがいいのだ。

決して生まれながらの「どM」ではない。
「なんで走るの?」という質問に対して、僕は「キツいから」と答える。

一般的な意見として「そもそもなんでこんなことを始めたのか」という疑問があるだろう。

30歳を過ぎた頃から、会社ではある程度の「立場」と「給料」。そしてプライベートでは結婚して子どもにも恵まれた。
しかし、それだけで「人生が豊か」なのか?というと、そうではないところに人生の面倒臭さがある。僕にとっては、おそらく金も社会的立場もなかった学生時代の方が「人生が豊か」だったと感じる。

いくらお金を手に入れても、どれほど職場で立場がよくなっても「人生の豊かさ」という点ではそのようなものとはまるで異なる。
30歳を超えて1つ1つ満たされていくうちに、そう思うことが自分の中で次第に大きくなっていった。 

結局、人間のような欲深い動物は「達成する(得られる)」と「さらに上」をみてしまう。だから人生の豊かさを追求するということは、もしかしたら結果ではなくプロセスを楽しむこと、すなわち「経験のバリエーション」を持つことではないかと感じるようになった。

そこで自分にとって苦行はなんだろうと思った時に、灼熱地獄、3つの山、完走率約50%の「京丹後100kmウルトラマラソン」がバッチリあてはまった。

よし、これに毎年参加していこう。

こんなことに身を置いて「人生の豊かさ」が得られているといった感覚を他人にうまく説明するのはなかなか難しい。

「100km先のゴールテープをきること」
で「豊か」になるのではない。

毎回異なる経験を得るプロセスそのもので「豊かさ」を感じるのだ。

仮に当日のコンディションが悪くて途中リタイアすることになったとしても、それは経験のバリエーションを増やしているので「豊か」なのだ。

プロセスで「つらいのを楽しむ」というと、「昭和脳」とか「パワハラの発想」とか言われるかもしれないが、僕は他人にこれを押し付けるつもりは全くない。「人生の豊かさ」は人それぞれであるし、身体的苦痛が絶対に嫌いな人がいるのも理解できる。

だけどウルトラマラソンに参加するようになって、「人生の豊かさ」とはありきたりな毎日から得られるのではなくて、「経験のバリエーション」から得られるという本質は全く揺るがなくなった。 

だから僕は日常において、あらゆる経験に「チャレンジ」を求める。記事を更新し続ける今でもそうだ。

仕事も、マラソンも、人との交流も、記事更新も、育児も、すべて未知の経験につながる「チャレンジ」だ。

人生というスケールで見れば「プロセス」こそが「人生を豊か」にする最も重要な要素であり、我々が楽しむべきものだと思う。
なぜなら長短あっても人生の「結果」は、皆一様に「死」であるから。

だいたひかるさんは、おそらくプロセスに喜びを感じている

新しい命を授かるならば、自身の命なんて

「どうでもいいですよ」

こんな境地に達した「性(さが)」に、だいたひかるさんの強さを感じる。
やめようにもやめられない(正確には諦めきれない)「性(さが)」なのだ。

これは僕の勝手な憶測であるが、発言を見る限り彼女が悟った人生は「結果」だけを求めているわけではないと思う。
苦労も含めた経験のバリエーションを増やしている今こそが、彼女の人生を「豊か」にしていて、ある意味この瞬間を楽しんでいるように感じる。

だからどのような結果になろうとも、本人は受け止められるし、このチャレンジしたことに後悔はしないだろうなって。
※あくまで僕の憶測である

ということで、熱く語ってしまったが。。。

「ウルトラマラソンはいいぞ!」

で今日は締めくくりたい笑

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