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同期の「ラーメンマウンティング」によって中毒になった僕が「中毒」について語る何ともブーメランな話

もうかれこれ20年も前になる。

僕の会社の新人研修は、同期60名が、とある田舎の研修施設に籠もって一ヶ月間、社会人たるものはナンぞや、の研修を受けながら共同生活を送る。

2泊3日程度であれば、

「みんなと別け隔てなく仲良く」

過ごすのだろうが、

一ヶ月ともなるとさすがにそうはいかない。

素で接して楽な人、愛社精神度合いやエロさ加減や趣味嗜好。
お笑い好きや女好き度合いやらで、男同士は自然とグルーピングされていき、その結果、次第に自由時間や就寝時は居心地の良いグループと一緒に過ごし始める。

一緒に過ごした連中を今思い返してみても、やはりその属性は僕の人間性の低さと無限の偏屈さを素で受けとめてくれる同属種ばかりだったと思うし、今や一様に「斜に構えながら」全国津々浦々、各拠点で中間管理職をやっている。

さて、こうやって研修施設に拘束され、もともと仲がよかったわけではないメンバーと語らいだすと、当面は謎の「俺の地元すげぇ合戦」からスタートする。

「俺の地元では……」
「地元の味噌汁は…」

各自、まるで甲子園の代表校かのように生まれ育った地元のプライドを背負い、なにかと地元愛を伝えんとしてくる。

それはもう地方創生を成し遂げたいのかと思うほどに、やたら帰属意識の高い連中と化すのだ。

「おまえらは本当にうまかラーメンを食ったことがなかろうもん」

研修も中盤に差しかかったある日の消灯後に福岡出身の大男が博多ラーメン愛を熱弁し始めた。

それを最初は静かに聞く、北海道、広島、富山、山形出身の4人の同期たち。
誰もがありがたそうな顔をして聞いている。

しかし彼らにも背負ってきたご当地ラーメンプライドがある。

札幌みそラーメン、尾道ラーメン、富山ブラックラーメン、酒田ラーメン、、、

次第に各々が負けじと地元ラーメンの麺の硬さや太さ、スープのこってり度やあっさり度の特徴を得意げに披露し始めるのだ。

あくびをしていたのは山口出身の僕と、うどん県香川出身の大島だ。

このときに痛感したのは、世の中には
「ラーメンマウンティング」
というのが存在する、ということだ。

これはかなり強烈なものがある。
「我こそがラーメン通」
という謎の自意識がそうさせるのだろう。

いつしか灯りを消したはずの部屋が
「ラーメン語り」の決闘の火花でバチバチと明るく灯され始めた。
 
しかし。
突如、事態は一変する。

博多男が、己を信じ、敵を砕き、強さを求めて圧倒的真顔をから重低音のヴォィスでお勧めのラーメン店を告げた時、またしても部屋には夜の静寂が訪れた。

「群を抜いて『一蘭』だ」 

一蘭が、如何にラーメン店の常識を覆してきたか、スープがどれだけ旨いか、福岡のソウルフードが全国に向けてこれからどんな未来を創造するかを、信じがたいほどに滑らかに、より雄弁に、より情熱的に語った。

その堂々としたコトバに、周囲は多少面食らってしまったのだろう。
「信念」に近い何かを感じて恐れおののき、動揺を隠せずにポツリポツリと博多男に同調を始めたのだ。 

「お、おぅ。一蘭ね。一度、行ってみよーかと思っちょるわ。」
一蘭ご当地から最も近隣の尾道ラーメン男がボソッとつぶやく。
※当時、一蘭の店舗は福岡が大半で、あとは東京に2、3店舗点在するにすぎなかった。

「ウマい。あれは恐ろしい程ウマいぞ。」
富山ブラックラーメン男が、就活中に東京で食したようで、なんと敵陣を褒め始めた。

言葉の裏には、敵をたたえ、認める彼の抑えきれない苦悩や優しさすらをも感じる。まさに「ラーメン通」の確かな仲間意識が生まれた瞬間だった。

そうか。
一蘭にはそんな魅力があるのか。
僕の脳は完全に一蘭にハックされてしまった。

そしてついにその時が訪れた。

ラーメンと言えば一蘭と脳内ハックされたオレ。
初めて福岡へ出張した際に、博多駅に到着するやいなや、地下街の外れにポツンと佇む一蘭博多店へ一目散にしゃかりきになって訪れた。

入店するなりラーメン店とは思えない様相にいきなりビックリした。

こ、ここはラーメン店なのか……

今思えば、席は飲食店の未来を予知して先取ったとも言えるまさかの

「ソーシャルディスタンス」

席1つ1つを板で仕切って、さらに店員の顔すら見えない。まさに周囲の目を気にせずラーメンにだけに集中しろと言わんばかりのたたずまいである。

こだわりもスゴイ。
メニューは多様化されずに「とんこつラーメン」一本。

よし、これは期待できるぞ。

そしてしばらくして運ばれてきた。
一杯のラーメン。

麺を割り箸で数回スープに馴染ませてから、ズルズルズルっとすすった。

!!

ぬぉぉぉぉぉおおお、う、うまい。うまいぞ!!

想像をはるかに超えた。
最高だ。死ぬほど旨い。一気食い。替玉。  

あっという間に食べきった。
食べきったというより「むさぼり喰った」という表現が一番ふさわしいかもしれない。
スープが五臓六腑に染み渡って、それが至高の満足感をもたらした。

僕がラーメンから受けた初めてのインパクトであった。

不思議な事にラーメンのような炭水化物に脂質の暴力的な配合で濃いめの味付けを加えた料理は、「中毒性」を帯びる。この中毒性を帯びた料理の非常に厄介なところは、定期的に食べたくなるという点にある。

それからというものだ。
すっかりラーメン中毒になってしまったボクは、一蘭と同等クオリティのラーメンを関西で食べられないかと彷徨った。

昼飯も、晩飯も、そしてみんなで飲みに行った後も、とにかくラーメンを食べまくった。

あれ?
さすがにラーメンばかり食い過ぎているんじゃないか?ラーメンばかり食べて、栄養が偏ってるんじゃないか?

そう思って自粛しようとするも、数日すると急にまた食べたくなる。

舌が一度おぼえた味。
忘れられない。そこには胃を掴んで離さない、強靭な粘着力があるのだ

と、あれから20年。。。

42歳になったオレ。おじさん。

今や、背脂の多い豚骨ラーメンのスープを飲み干すと必ずその夜は、決まってお腹ピーピーで悶絶する。

当時、福岡の地でしか味わえなかった一蘭は、今や関西のあちらこちらに店舗を構え、気軽に行けるような環境になった。

が、やはり夜になって悶絶するのが怖くてずっと行ってない。

なぜこんな身体になったのだろうか。

人間ドックでも異常はないし、何なら医者にかかって胃や腸に異常がないかも徹底的に検査してもらった。
 
それでも悪い部分は見つからない。
じゃあナニだ?

これこそが「老い」だろう。

蓄積されたコレステロールがあーだ、こーだと言っていた医者もいた。
身体がもぅ受け入れなくなったんだからと自分を戒めることはできるが、厄介なのは、中毒症状である。

身体が老い始めても、悶絶しても、若い頃に脳に擦り込まれた中毒性はなかなか抜けきらない。

結局、今でもラーメンを食べに行くと、ダメだと分かっていてもドーパミンの分泌異常が起こって、意思に負けてきっちりとスープを飲みほしてしまう。

むしろダメだと一日中強く念じ続けた上で満を持して食べきるラーメンが最高に美味い。背徳感がすこぶるワンダーな気持ちにするのだ。

まさしくラーメン依存も他の依存症と同じで、結局は意志の問題である。

このことから何が学べるだろうか、最後にちょっと無理矢理だけど「中毒」に関連付けて文章を締めくくりたい

中毒を治すのは厄介である。
依存症を治療するには、対象から隔離しなければならない。

薬物中毒者の目の前に麻薬を置きながら、
「もう麻薬をやっちゃダメだよ」
なんて言ってもやめられるわけがない。

僕はラーメンを目の前にして

 「これを飲みほせば後で苦しむことは分かってる。分かってるんだけど……こんなに美味しいものを捨てるなんてもったいなくて、飲まずにはいられないんだ!!」

となる。
多くの人が人生においてそのような経験は多少なりともあると思うが、中毒とはそんなものである。

で、中毒や依存症のナニが悪いのだろうか。
中毒でよく「悪く」言われる対象が

アルコール、ギャンブル、SNS(スマホ依存、通知中毒、反応中毒など)、短期売買投資、ブランド物の買い物、セックス、薬(麻薬や大麻)等々。

一方で、
ベジタリアンや、ランニングしなければ身体がムズムズする、歯磨きしなければ眠れない、暇があったら本を読んでいる等、こういうのもある種の中毒症になるが、これは「良き習慣」として一定の評価を受ける対象となる。

結局、中毒(依存症)で問題視されるのは、最大は健康を害すること。 そしてもうひとつは経済的な破綻につながること。

この2つの観点である。

だから多くの場合、
中毒や依存症の問題として挙げられる

「人格を破壊する」
「頭が悪くなる」

という点は、実は「健康的な生活を送る」「浪費しない」などといった命題がなければ、問題として成立しないのだ。


で、noteはどうだろうか。
noteを更新しなければ一日が終われない。
そんな中毒症(依存症)にも似た感覚をもって向き合っている人もいるだろう。
記事を綴り続けることは、おそらくランニングの習慣と同様の位置づけで「良い習慣」として多くの人から評価されるに違いない。

そこに文章スキルの向上や、人脈が増えたり、情報に対する感度も上がったり。
スゴイ人ともなると副業のように収入を手にすることもできる。

まさに「良いことづくしの習慣」である。

しかし他人を意識しすぎるとこれが一変する。

SNSにありがちな「通知中毒」、「反応中毒」になって、運転中にまでスマホで確認してしまうようになると、これはたとえ事故がなくても「悪い依存症」である。

よくこういう人に限って
「一瞬、見ただけ」
「前を見ているから大丈夫」
と言うが、客観的にみて危険な行為を「大丈夫」と言ってわざわざ「他人の反応」を見る行為は、まともな判断のできなくなった依存症そのものの症状である。

長いね。
よし、そろそろまとめようか。

僕が長年ブログの世界で生きてきて思うことは、反応があろうがなかろうが書きたいから書く人は強く、反応をあまりにも求める人は弱い。

僕のような凡人は、noteを「良い中毒」にするためには、モチベーションの源は常に「自分」の中に持って、他人を気にせずに自分のやりたいことをやった方が良い。

その方が絶対に楽しいのだ。

せっかく気合を入れて書いた記事が大して読まれもせず、力を入れずにどーでもいいような記事がホットエントリーとして人気を集めることなんてこの世界には往々にしてある。

さらに他人と比較するようになると、同じ時期に始めた他のnoteは、今や人気クリエイターの仲間入りをしてるのに自分のnoteは鳴かず飛ばず。

才能ね〜な〜。
やめちまおうかな〜。

別に強制されてるわけでもないし、惰性でやってるより思い切ってやめるのもありかな〜。フォロワーも大していないし〜。

モチベーションの源が
「他人からの反応、評価」
であるとそんな感情になってくるのだ。

仮に多くの人から評価されていたとしよう。
でも、実際のところは、自分が思っている以上に他人は自分には興味がないのは世の常。

「SNSから離れたらみんなが心配するんじゃないか」

とか考えがちだけど、全く考えなくていい。

「離れよう」と思ったらすぐに離れてしまえばいいのだ。

なんだかんだ、休憩しながら、転びながら、倒れながら、更新という行為が自然になり、無理しなくなってからが、noteやブログの本番の気がする。

ウルトラマラソンランナーである僕が断言するが、ゴールのない長距離走者は、走ることすら意識しなくなってからが強い。

だからこそ止めたいとき止めればいいし、始めたくなったらまた始めればいい。

そうしてこの世界に長く生き残っていく人が本当に掴みたかった成果を手に入れるのだ。

この習慣こそが、「良いnote中毒」なんだろうなぁ、と僕は思っている。

あとがき

神戸に住むボクは、今は比較的あっさりで激ウマの「もっこす」ラーメンの常連となった。

食べ慣れたラーメンの上には、トッピングでネギを追加し、想像を絶する量の「ニラ」を乗せ、それをムシャムシャと食べる。

むふふふふ。
ネギとニラを増やせば大丈夫。

これだけネギとニラを食べれば、野菜に関しては一切問題ないだろう。この、ラーメンの上に乗っている具材だけで自らの栄養バランスを軒並みコントロールしようとする強引な姿勢。

ラーメン健康法。
これが今の僕の理論だ。

あぁ、ダメだ、こりゃ。

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