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文系大学院生の生態①

この世には、この人何してるんだろう?という人がいる。

まさに私のことである。

この世で1番何をしているかわからない人、それが文系大学院生(博士課程)である。

まだ「理系の大学院生」はイメージがつきやすい。
白衣を着て、研究室に赴く。
そして日夜、未知なるイノベーションを求めて実験を繰り返す。
その過程でカメバズーカとか、イカデビルが生まれたり生まれなかったり。

だか文系はどうだろう…
薬品とか使った実験なんてしないし、白衣も着ていない。
なんとなくボンヤリと生きているように見える。
「大学」というモラトリアム期間の延長に次ぐ延長をしているように思える。

文系大学院生が何をしているか。

その答えは簡単だ。
日々、文献を読み、人によっては調査をしたり、論文を書いている。
私的には、論文を書こうとしてジタバタ足掻いている時間が多いけど。

実は理系も文系も最終的な目標は同じである。
「論文を書くこと」だ。

論文とは研究結果を論理的にまとめた、2万字程度の文章である。
これを書いて、発表することが「最終目的」であり「やるべきこと」である。

そのために、日々、実験をしたり、調査をしたり、文献を漁ったりしてる。
ただ具体的に何をするかは人によって大きく異なる。
一々説明するのは手間だから、総称して「研究している」と言うのである。

正しいかは知らぬが、私の解釈ではそう思っている。

その論文には種類がある。

審査のある「査読論文」
審査のない「紀要論文」
の2種類だ。
どちらも学術雑誌に載るけど、審査を突破した「査読論文」のほうに価値がある。

世の中何でもそうだけど、審査を突破したものは強い
他人からお墨付きを得ているのだから。

査読論文が何本、審査を突破したかも重要だ。
なぜなら大学院を卒業するにも、就職をするにも、
研究者としての力量を示す一つの指標としても、
査読論文の「数」が重要視されるからである。

査読掲載 or DIEである。

査読論文の審査は、学会などがの出版する「学術雑誌」の審査員が行う。
この審査員は匿名で選出される。
大抵は、どこかの大学の先生だ。

学術雑誌は、雑誌によって程度はあるけど、
だいたい年1〜2回出版される。
よって審査も年に1〜2回。

1冊の雑誌に掲載される論文の数には限りがある。
なので当然、審査に落ちる。
懸命に文献を読み込み、必死に書いた2万字の文章を提出しても、
簡単に落とされる。

大学院生とか研究者というやつは、日々審査を受けている。
そして審査に落ちまくって、たまに突破する。
高名な先生が書いた論文でも落とされることはある。

締切に追われ、終わったら終わったで次の論文を書く。
その繰り返しだ。

さて、数ヶ月かけて書いた文章が
あっけなく審査から落ちてしまうと、どうなるか。

まず次の挑戦はまた来年…
年に限られた回数しか審査はないので仕方がないけれど。
これが時間的にも、精神的にもかーなーりキツイ。

審査に落ちたらコメントがもらえる。
講評というやつだ。

ここがダメだ、あそこが足りない、この論点は無くていいのか…。
必死に調査をして、さまざまな文献を読み、
論理的に正しい説明を行った(つもりの)論文で様々なご意見を頂く。

この講評を書いた人たちは、さぞ立派な論文を書くんでしょうな(泣)!

と思ってしまう。
実際には審査員だって過去に落とされた経験があるのだろうけど。
思わずにはいられない。

このように多くの文系大学院生は、
論文を書いては審査に出している。
そして、落とされる。
悔しくて酒を飲む。
二日酔いで寝込む。
そしてまた論文を書く日々を送っているのだ。

では、なぜ、そこまでして研究して論文を書いているのか?
金も、地位も、名誉も無い大学院生なんて立場にいるのか。

論文は、漫才みたいに誰かを笑わせるわけでもなければ、
小説家や映画監督のように誰かを感動させるわけでもない。

収入もないし、恋人はできないし、
周りの人からは珍奇な人、あるいはカワイソウな人として見られる。
(個人差はあるけど)

ではなぜ、研究を続けるのか。

私の場合、きっとそれは「研究」が楽しいから、だと思う。
もう個人的に楽しいから研究をやっている。

調査をして色々な話を聞いたり、
文献を読んで新たな知見を得たり、
そこから発見したことを論文という「形」にする。

その全てが楽しいんだと思う。
やり続けた結果、一生貧乏でもいいや、結婚できなくてもいいや、
と思えるくらい。
だから私は研究を続けている。
いつの日か、自分の研究が何かの形になるその時まで。

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