靴を履くことで遠くまで行けるのなら
「薬を飲むのが嫌なんです」
私がこう言うと、医師たちは、
「そうだよね」
と共感の言葉をかけてくれる。
とはいえ、患者の意思を尊重してばかりでは治療が進まない。だから、医師として言葉を選びながら「治療に必要な薬」を飲むよう仕向けてくるのだ。
けれども、医師の努力は暖簾に腕押し。ほとんどの言葉は印象に残らない。
なぜなら、薬を飲ませることがゴールの会話は、説き伏せられるか否かだけに意味があり、私がどのような感情を持つかなどお構いなしだからだ。
そんなやり取りを幾度も繰り返しながら、嫌々でも飲むしかないもの。それが私にとっての薬だった。
◇
ところがあるとき、とある医師から、私が心の底から納得できるような言葉をかけられる。
私の主治医からの言葉ではなかった。いや、主治医ではないからこそ心に響いたのかもしれない。
薬を飲むのが嫌だという私の言葉に対して次のような話をしてくれたのだ。
治療に必要な薬を飲むことで広がる世界がある。そう考えれば、必要に応じて薬を飲むことも必要なのだ。
薬を飲まずに寝たきりで過ごすのか?
それとも薬の力を借りて、自ら起き上がり、自身の脚で歩くことを選ぶのか?
そんなことを自問して、薬を飲むことの要不要を考えながらも、適宜、かつ、積極的に、治療に必要な薬は飲もうと思えるようになった。
◇
靴を履くことで遠くまで行けるのなら、そういう人生を選ぼう。
薬を飲むことで長く生きられるのなら、そういう人生を楽もう。
一度キリの人生なのだから。