それぞれの「3・11」......私の場合
あれから10年。
2021年3月11日に、この言葉を発することが何を指しているのか?それが判らない人は、おそらくいないだろう。
◇
ネットにもテレビにも新聞にも、多くの人がそれぞれの想いを寄せている。
あの日あのとき、自分はどのようなことを思ったか、どのような行動をとったか。慈しみの心で語られる前向きな言葉も多い。
だが、私はまだ10年前のことを消化できずにいる。
あの日あのとき、私は苦しみの中にいて「自死を選ぶかどうか」を思案中だったからだ。
大きな揺れを感じながら、地震で津波が来るかもしれないと思った。
あの日あのとき、尋常ではない揺れを感じながら、「あぁ、このまま死ねたら楽だろうな」と、飼い猫を抱えて私はそっと目を閉じた。
◇
3・11。
あの日は仕事が休みで、私は家で布団の上に寝転がっていた。
数日前の人事評価面談のことを思い出し、悔し涙を流していた。声が枯れるまで泣き尽くした。
私の哀しみを察した飼い猫が、そっと体を寄せてくる。その温もりがまた哀しみを増し、さめざめと泣き続けていたのだ。
人格否定とも受けとれる上司の言葉が頭から離れなかった。「3月末で辞めてくれても構わない」という意図を上司の言葉に汲みとっていた。
その声がダメ。 声がダメなんだよ。 声がダメだから人を嫌な気持ちにさせる。 その声を発すること自体が周りへの「嫌がらせ」のようなものだ。 イライラさせられるし大変不快! その声、なんとかならないのか⁉
矢次早に「声がダメ」と言われた。
上司からの人事評価といえば、仕事ぶりについて評価され、改善点を指摘され、今後の業務に生かしていくものだと私は考えていた。
だが、このときの上司の言葉はどうだろうか。
「これは改善のための評価というよりは、ただの人格否定なのでは?」と私は思った。困惑を覚えた。
仕事に就いているときの私は、いつも以上に冷静な仮面を身に纏っている。だから私は次のように尋ねた。
「はい。わかりました。では、どのように声を変えたらよろしいでしょうか?」
上司に尋ねたが、明確な答えは得られなかった。
だから私は退職を促すための発言だろうと考えるしかなかったのだ。
◇
大きな揺れの間、上司の言葉を思い出していた。「このまま死ねたら楽だ」と思いながら横たわっていたが、揺れは数分でおさまり、大きな津波は来なかった。
私は生きていた。
あの日あのとき、あの地震が起きなくても、自死を選ぶことはなかったと思う。今後を思案中のまま仕事に戻っていただろう。
不満を抱えながら仕事を続けるか、自暴自棄になって退職していたかわからないが、少なくとも肉体は生き続けていたと思うのだ。
だが、あの瞬間とっさに「楽になりたい」と思った気持ちはホンモノ。
この状況を変えられる見通しが立たず、上司への信頼も消え、努力を積み上げてきたモノが全て無駄だったと感じていた「あの日あのとき」。
つまり私は既に絶望していたのだ。
そこからの人生は「助けを求めても、誰も助けてはくれない」という世の中の冷たさを痛感する出来事が続いた。
困難は重ねて起きるものだとつくづく思った。世の人々の冷酷さを痛感した。
震災後に受けた冷遇は、今でも忘れられないが、できれば忘れたいと思うほど今も私を苦しめる。
とはいえ、絶望しても何とか生きていけると確かめることはできた。
生きていてよかったと敢えて思うようなコトもないけれど、自ら死を選ぼうかというほどツライ時期があっても、「なんとかなった」からだ。
◇
あの日あのときから続く未来に生きていることを忘れない。そういう気持ちを抱くと同時に、あの日あのとき、思ったり感じていたことを忘れたい自分もいる。
私の職場は、あの震災以降、仕事が増えた。幸か不幸か震災のおかげで私のキャリアは順調になっていった。
「3月末で辞めてくれても構わない」と感じた人事評価に不信感を抱きながらも、同じ上司の下、仕事を続ける日々。
忙しい合間を縫って、発声練習と早口言葉の訓練を繰り返した。数か月の間、地道に取り組んだ。
声を変えるために想定される「努力」を自ら探して、毎日取り組んだのだ。
そして私は「新しい声」を手に入れた。
数年後、私は辞職したが、努力を積み上げて手に入れた「新しい声」は、今も生き続けている。