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愛するということ

「こんな本を読んでるんですね」

と、どこかでだれかに指摘されたら、ぜったい赤面してしまいますが、人生でもっとも大切なテーマかもしれない『愛』の本。

「この本は、身を引き締めてかからねば」と思わされる一文からはじまる。

愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するにちがいない。そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではない、ということである。

フロムさん(著者)の前では、生半可な気持ちで「愛されるよりも、愛したいマジで」とか、ぜったいいえない。。マジで

愛は学べる技術だ

愛は大事だとは多くの人はおもっていても、「愛は技術だ」なんて考えたことはないはず。だけど、フロムさんはそう言い切る。そして、運が良ければ「落ちる」ようなものだ、と思っている人たちの前提をぶった切っていく。

まず第一に、大抵の人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題ではなく、愛されるという問題として捉えている。(略)第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。(略)第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっと上手く表現すれば、愛の中に「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

一度にいろいろと指摘されて混乱してしまうけど、「愛は技術」であると知ってほしいことはわかった。

愛は技術だから、まず理論に精通して、その習練に励むこと。そしてその技術の習得が自分にとって究極の関心事にならなければならない。らしい。(・・なかなかにヘビーだけど、それだけ真摯でいるべきってことかな)

愛の理論

人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがないーここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる
このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

いつの時代もボッチになりたくない。だから組織に入ったり、お祭り騒ぎでフィーバーしたり、絵を書くことに没頭して一体感を感じる。けど、それらは同調のための偽りのものや、一時的なものや、人間との一体感ではなかったりする。となると、人間どうしの一体化。『愛』がこたえだ。と。

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

対して、フロムさんのいう未成熟な愛(共棲的結合)は、服従や支配であり、それは目指すところではない。二人はひとつになるが、二人のままでもあるという、そこには相手への信頼や尊重の気持ちがある。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

与えるのは、Give&Takeで見返りをもとめたり、犠牲を払う苦痛を伴うから美徳である、という話ではない。

自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

相手になにかを伝えたときに、相手のなかに何かが芽生える。そのことに喜びを感じ、互いに生き生きする。声をかけるのも愛の1つ。

「配慮」「責任」「尊重」「知」も愛の能動的な性質の要素だと、フロム先生はおっしゃっている。(じわじわ著者への敬意にめざめてきた)

配慮 愛する者の生命と成長を積極的に気にかける
責任 何かを求めてきたときの対応、他人の要求に応じる用意
尊重 ありのままの姿をみて、唯一無二の存在であると知る
知 表面的なものではなく、核心にまで届くもの

・・・そろそろ理論はお腹いっぱい。

愛の習練

休ませることを知らないフロム先生。ぜひともシゴキをいただきましょう。

一人でいられるようになることは、愛するということができるための必須条件である。もし、自分の足で建てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人になりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。

さっそくなんと厳しいお言葉。と思いきや、よくよく読むと、リラックスして呼吸を感じて、「私」を感じる努力をするという、現代でいうマインドフルネスのお話。”全身で現在を生きること”であり、集中すること。

さらには、”ナルシズムの克服”をして客観的に周りをみるための、”理性と謙虚さ”を働かせる。それから次が「信じる」ことの習練だ。(道は長いが、それだけの価値があるはず!)

他人を信じるということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。(略)
愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、の信じることである。
他人を信じることのもう一つの意味は、他人の可能性を信じることである。

相手に対しても、自分自身にも、変わらないことと可能性の両方を信じる。知識や経験を積み重ねると批判的だったりリスクに目がいきがちだが、よりよくなる、よりよくできるという信念をもち続けることが、愛になる。

人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

たしかに、愛も信念も怖いもの。へんに期待せずに、いっぽ引いて関わっていたほうが、痛い目にあわなくて済む。けどそれじゃぁいつまでたっても孤独なままだ。

「愛は学べる」ことを信じ、フロム先生を信じて、習練に励んでいきたい。

ここまで長文をよんでくださり有難うございました!愛を込めて(はっず)