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一人っ子になりました。【ワタシについて】


現在、高校2年生。
ただ今、受験生ゼロ学期をほぼ不登校中。

なんとか落単を免れ、3年での復帰のために、
毎日を過ごしている。

ただこのまま3年になったら、
また壊れてしまうのではないか。

そんな考えから、超自己満足なnoteを書いてみる。

※受験に少しでも不安がある方、センシティブな内容が苦手な方は読まないことをお勧めします。


「それまで」のワタシ 

私は、絵に描いたようないい子ちゃんだった。

父の影響で、小さい頃から読書読書。と、習字。
小学生時は学級委員を務め、中学生時は最初の定期テストで学年1位。専科も体育以外はオール5。


兄弟は、兄が1人

あまり親しくないし、比べられたこともないけど、自分で言ってしまえば勉強面も芸術面も、
3歳上の兄より自分が秀でていた。

本気で勉強が嫌だと思ったことがない。

親や周りの大人が喜んでくれたり、
周りに凄いと思われたりするのが嬉しくて、
それを糧に頑張るいい子ちゃん。


この+情報をつらつら並べている時点でお察しかもしれないが、私は自慢したがりでプライドも死ぬほど高い。自覚している。


そもそも、中学は[兄弟情報が多い&“部活と運動神経ありきのスクールカースト” ]で、
[兄の地位は決して高くない&吹部と運動神経微妙で地位が低めの私]は「頭いい!」と言われることで居場所を作っていた感じだった。

その雰囲気で“自尊心高々人間”になっていったような気もする。

ただ、中3の時は彼氏もいたし、今から思えば青春っぽい部活もやり、そこそこの“JC”だった。

兄妹 − 兄 = ?

中3秋。日曜。

深夜。何時ごろだったか。

両親の、電話する声と、外へ出る音を
遠くで聴いた。

そして、誰もいない、日曜10時、起きた。

数分後、両親が帰ってきた。



兄の自殺の知らせを聴いた。



数日前から、大学受験生の兄がなんとなく元気がないのは知っていた。

けれど、ワンオクの話以外親しくもないし、
お互い受験生。自分のことで忙しかった。

いつ内容のある話をしたか思い出せないくらい、
一つ屋根の下の疎遠な存在だった。

そしたら、永久に疎遠な存在になった。

まさかまさかなのだが、
私は「あ、自分の部屋がもらえる」
反射的に思う最悪な妹だった。


今から考えても、どういうことだ私?となるのだが
思考が追いついてなかったのか。


けれど、本当に悲しい時は心が追いつく前に、
身体が先に泣くんだなと実感するほど、
今から思うと、悲しかった

内申が決まるテストを1週間後に控えていた。

これもなんとなんと、なのだが、
どこまでも非情だった私は、平日から普通に学校に通い、普通に授業を受け、少しは減ったけれど変わらずテスト勉強をするほど、とにかく普通だった。


「兄の名誉のために、周りに話すな」

と言われていたので、勿論言うつもりもなかったが
誰にも話さず、いつも通りテスト期間を過ごした。


兄の影響で好きになった邦ロックを、
塾の行き帰りの計20分、のみ、
人気のない道を選んで、静かに泣きながら聴いた。


テストは、数学で葬儀のフラッシュバック(なんせこれが人生初めてのお葬式だった)で過呼吸寸前になり保健室行きをしたものの、
やっと親が中学に連絡し担任団に伝わったのもあってか、内申は42でなんとか耐えた。


テスト返却時、兄妹揃ってお世話になった
社会のおじいちゃん先生から、

「今回もすごいねぇ、しっかりやってるねぇ」

と言われた時、“がんばれ”って目が言ってて、
教卓の前で涙が落ちないよう堪えたのを、よく覚えている。



ただ、肝心の学力が思うようにのびなかった。

第1志望はA判だったが超人気校で、
S判でも落ちる噂を聞いて落とすことを決めた。


それならもういっそと、「家が明るくなれば」という思いで、父親の母校を受けることにした。


(因みにこの頃、親に内緒で、受験に響くといけないと思ったが信頼している友達2人にこのことを話した。聞き慣れない話で驚いたどころでないと思うが、流石は私の友達。ベストな対応をしてくれた。本当に感謝。)


実は、本当はもっと受けたい高校があったけれど
落とした時点で“受験は失敗した”という失意で、
正直何でも良くなっていた。

かといって、駅で立ち止まって号泣するほど行きたくなかったらしいが、結局願書を出した。


矛盾だらけだが、
それが当時の自分の心情と行動だった。

なんでここに?こんなはずじゃなかった。
塾や中学の同級生と同じ高校に行きたくない。


今まで高々と積み上げられたプライドが、
踏みにじられたように感じた。


また、兄のことで後々話が面倒にならないように、
どうしても知り合いのいない高校に行きたかった。


「兄のことがなければ」

「もっと親と話しやすい環境ならば」

 とタラレバが頭を掠めた。


願書を出してから急にやる気をなくして、
勉強時間が半分になった。

何かのせいにして、落ちぶれていく自分が
嫌いで嫌いで、苦しかった。


ただ、学校でのプライドの高さは健在で、
周りに「こうなったら首席合格だ!」と宣言。


結果、有言実行。首席合格


正直言って「当たり前だ」と思った。


祖父母も喜んでくれて、新しい風が吹かせられたなと一応、少し良い気分にはなれた。

コロナ禍の春

新型コロナウイルスの影響でずるずる卒業、
高校生になった訳だが、
当時の私にとっては、良かったらしい。


時間ができたことで邦ロックを深掘り。

ライブができないからと各バンドが映像放出というありがたいけど申し訳ない恩恵で、
めちゃくちゃハマった。


また、高校受験が悔しくて悔しくて
受験が終わった後の自粛期間の方が勉強した。


今から思うと、勉強や音楽に集中することで自分を保っていたのかもしれない。


辛かったのは、首席合格したはいいものの、
入学式が消えて、初登校日の学年集会のような場で「新入生代表」をしなければならなくなったこと。

私が入学した高校は中高一貫だったから、
「内部生が半数以上占める中、ルーズな空間で一発本番」は中々きつかった。

高校1年生・ ?= 一人っ子?

クラス全員での登校ができたのは7月だった。

振り返ると、7月登校&行事なしの原因・コロナがとっても憎い思う程、これ以上ない学校生活だった。


周りが内部生ばかりだし受験失敗で “友達できなくても勉強してりゃいいや” と思っていたが、
首席合格したおかげもあって沢山声をかけて貰い、外部生最速の1人になれる程早くクラスに馴染めた。


内部生3人、外部生私1人の4人で仲良くなれるなんて思っても見なかった。

嬉しかったありがとう。


とにかく、みんな優しい。カーストがない。
授業の質が良い。凄い。

なんだここ、天国か?と。


(志望校を落としたという悪い言い方をしたが、
外部生の倍率が低く入りやすいだけで、学校自体は自称進と進学校の間くらいの学校。

ああ、頭いい学校に入るとこういう特典があるのね」と思ったなあ )


けれど、と同時に、苦しかった。



奇しくも、よくいる名前でもないのに、
同クラに兄と漢字まで同じ名前の子がいた。

なに?呪いか?と初日から苦笑いだった。

(p.s. 因みになんと3年間同じだし今隣、笑
超関係ない先入観でしか見られなくて、本当に申し訳ない、な、けど、勘弁してくれ、笑)


コミュ英で見た「ショーシャンクの空に」
現代文の「こころ」

ぜんぶぜんぶ、嫌だった。

なんで自殺描写を見なきゃいけないのか。

「息をする、息をする、」
毎回これだけを唱えて、耐えた。


そして

「〇〇って兄弟いるんだっけ?」

「いないよ〜、一人っ子」

というやりとり。


私は、お兄ちゃんを抹消した。

私は、一人っ子だと言い続けた。


折角新しくできた友達に
嘘をついているような感覚にもなった。


だから、

兄弟の話を出さないでくれ

と毎日願いながら過ごした。

これは思いの外ストレスだった。


また、中学高校と同じになった友達と
極力話したくない、と思うようになった。


それは、「なんで私がこの子と同じ学校?」という超失礼な考えがないこともなかったが、

内部生の前で兄のことを口に出されて、辻褄が合わなくなることを恐れたからだった。

1回だけそういう時があって、その時は本当にヒヤヒヤした。その子の記憶が曖昧でよかった。


親は「その友達の親御さんに亡くなったことだけを伝える」と言ったものの、結局伝えてくれず。

全く期待していなかったが、予想通りだった。

加えて、この恵まれた環境でも、
どうしても高校を諦めきれていないのも事実で。

どうにか転学できないかな〜なんて
よく検索もしていた。

というか、周りに内部生が多いから言わないでいたが、入学が決まる前から、
毎日呪うように行きたくなかった。

とにかく自尊心もプライドも高すぎたし、
高校受験への固執が凄まじかった。


多分、どこかで、これは自分のせいじゃない
と思っていた。


といいつつ、外部首席で入っておいて低い順位は恥だと、定期テストは全力。

1年の評定平均はかなり良くて、
多分“頑張ってる子”だったと我ながら思う。


ただ、私は3回目のテストの時、
盛大に風邪をひいて休んだ。

その時は勉強のしすぎでの疲れだと確信していた。

ただその後、度々テスト前になると微熱を出すようになり、(あの時もテスト前だったからか)兄のフラッシュバックに悩まされるようになった。

高校2年生・17歳になるということ

フラッシュバックや微熱は、2年になっても続いた。

それどころか強まった。


2年の定期テストで4日間全て受けられたのは
たったの1回


微熱は勉強のしすぎも関係しているだろうが、それらは、特にフラッシュバックは、中々苦痛だった。


けれど、私はそのフラッシュバックや微熱を理由に、“楽をしようと思う自分”がいる事にも薄々気付いていた。

盛大に休んだ1年時のテストの時、味をしめてしまったのかもしれない。

その時期も、兄の一件を思い出させるような季節だった。


自分がそこまで追い込むのが悪いが、プライドのために勉強をしすぎてしまう。

テスト期間は体力的にキツいからどうしても休む理由を考えてしまう。

休めば、散々な結果は見なくて済む。


そして何より、勉強をやめたら、兄みたいに自分も押しつぶされるんだと思うと、怖くてやめられなかった。


これは2年前のトラウマなのか。

わざとなのか。

どちらもが原因なのか。


けれどとにかく、

兄を理由に、
周りと自分を差別化して、楽できてしまう。

と気づいてしまった。


あ、やっぱり、むりなんだなと悟って、

夏休み前、私は
親に「転学したい」と申し出た。


なんやかんやで結局、自分から撤回したものの、
夏休みはこの上なく空っぽで。

何をしたかすら言えないほど空っぽだった。


大好きだったワンオクが聴けなくなった。


女性ボーカルに一向にハマらなかったのに、
日本語が美しくて、どこか寂しい感じが好きで、
ヨルシカを聴いて過ごした。


家で、毎日イヤホンで耳を塞いだ。


…そういえば、文化祭準備をした。

“そんな理由で”となりそうで申し訳なくなるが、
なんと、劇のメインに近い役をやった。

自分が絶対学校に行かなければならない状況を、自ら作って、強制的に行かせるためだった。



また、高2になって大学受験の話が増えた。

兄が亡くなったのは高校3年生の時=受験生


私は、兄がなぜ自殺したのか、どこで死んだのか、どうやって死んだのか、何も知らない


私が聴かない限り、親は話してくれないらしい。
聴くだけ家に重い雰囲気がどーんっとくるだけだから聴かなかった。聴くわけがない。


けれど、何も知らない私でも、
少なからず受験が辛かったからなのはわかる。


その大学受験が、もうすぐ私にもやってくる。

それに対する、
多分他の人は感じない、莫大な不安に襲われた。

ふと素に戻った時、
ペンを持つ手が震えることが増えた。

それと同時に、学校の人気維持や生徒のやる気アップの為にはしょうがないが、

「国公立◯◯人!」だの「今年は◯大誰も受からなかった…」だの「今年は早慶が少ない」だの
高校が数ばかり強調していることや、独特の風潮がこの上なく気持ち悪く感じるようになった。

それに兄のこともあって、
頑張った受験生が無機質に数字や進学先であーだこーだ言われているのが勝手に悔しくて、
高校に対して不信感が溜まってしまった。



そして、私が「17歳になるということ」


それは、私にとって

17歳で亡くなった兄と、同じ年齢になること


別に、17歳になることで「!!」って何かが変わる訳ではないのは分かりきっているのに、

なんだかとてつもなく、本当に怖かった。



10月、17歳になった時は、
なんとかまだ学校に通っていた。


けれど、強制的に行かなければいけない理由だったペアのパワポ発表が終わり、学校に行くとっかかりが消えた。


その頃は、もう友達に気を使う余裕など微塵もなく自分を毎日学校に行かせるのが精一杯で、

クラスで1番仲良くしてくれていた子ともあまり話さなくなってしまっていた。ごめん。


修学旅行の班を決めていた時のこと。

上手く班が決まらず、意思を曲げない友達に納得してもらえるよう、他の友達と一緒に折衷案を提案した。

自分にも非があったし、結局折衷案はボツにされたのだが、一緒に考えてくれた友達が


あの2人、2人とも上だけに兄弟いるよね。末っ子気質だな〜自分の意志を通そうというのが凄い


と言っていて。


多分、心配して慰めようとしてくれていたのだが、私は、それに相槌を打つのと同時に、

そこで、今まで耐えていた糸がぷつんと切れた。


友達に対して怒ったんじゃない。


あれ。私ってもう末っ子じゃないんだ。

という事実が
ビッとマーカーで引かれたみたいだった。


勿論、全ての末っ子が意志が強い訳ではないし、
私に今もし兄がいたとしてもそうではないだろう。


けれど「もう末っ子じゃない、一人」という事実だけがザッと頭の中に刻まれて、
何回もその言葉を反芻してしまった。


また、その意思を曲げなかった友達は、2人でご飯に行くくらいには仲は良くて、大好きな友達2人。


それなのに、皆それぞれ何かを抱えて生きているのは分かりきってるのに、

あぁ、呑気に、のんびり、ぬくぬくと、
お気楽に生きてていいなあ

と思ってしまった。


また、周りと自分を差別した。


その日は、ちはやふるのサントラを聴きながら
戒めに、1時間かけて歩いて帰った。

高校2年生・11月末

遂に、11月末から長期欠席。


不安とストレスで不眠。

寝方を忘れた。

寝たら寝たで疲れが溜まっていく一方の身体。




“話すと長くなるのでまとめて書こう”と
今登場させる話なのだが、
夏休み頃から不信感の的は、父親。


私がここまで真面目だったのは、
高学歴で良い暮らしを提供してくれる父親の影響。


ただ、今から思うと少し変だった。

私は、(多分父親自身は無意識の)学歴自慢を聞き続けたおかげで、小さい頃は国立や早慶以下の大学という選択があることを知らなかった。

自分がそこに行くのは必然だと思っていた。


そこまでは思わなくても、多分、兄も
あからさまではないが、ずんと重いプレッシャー
を感じていたと思う。


私がここまで受験に固執し、兄のことで受験に恐怖を覚えたきっかけは、父親だ。

自分自身を処理できないのは、自分が悪い。

けど、根の根のきっかけは、ここ。

私は最初、どれだけ私の人生をかき乱したら済むのかと兄に対して怒り、

親に対しては“1番辛いのは親だから”と、味方のような気持ちでいた。


けど、きっかけはこっちか。となり。

そうなると、父親の理路整然とした言葉も説教も、
説得力が皆無に
聴こえた。


通うのは自分なのに、頼まれてもいないのに、
「家族のために」と父親の母校を選んだことが、
心底阿呆らしくなった。


相変わらず自分の優秀ぶりを延々と話し続ける
父親の声を聴くのが苦痛で、また、イヤホン。

いつでもイヤホンをつけていないと不安になった。さらに不眠になった。

長期欠席するようになってから、耳鳴りが止んだことは一度もない。

だいぶ、耳が悪くなった。


まあなんにしろ、高校を欠席し続ける私に、
ある種人権なんぞないから、
言い返せる立場じゃないが。


その時はもう、
勉強をやる意義がよくわからなくなっていた

書道の先生にでもなろうか、美大でも行こうか。
これが逃げかはわからない。
逃げと描写することも失礼だと分かってる。

けれどもう、なんでもよかった。
受験なんて、どうでもいい。


毎日、WANIMAを、サウシーを、マカえんを、ラッドを、ヨルシカを、バニラズを、沢山聴いた。


遠のいていたSNSを開いた日がマカえんのCD発売日で、勝手に運命を感じてCDを買いに行った。

親に内緒で、衝動的に武道館にも行った。久しぶりに「生きてる!」と言う感覚と快感を味わった。


私にとって、音楽は命綱だった。

多分、なかったら、今、私もなかった。

2年前の塾の行き帰りも、今も、
音楽の前だけは、素直に泣くことができる。

気持ちの切り替えが簡単にできる、即効薬的存在。

そして、兄と唯一のつながり
もっとも、私はワンオク以外
兄が好きなバンドを知らないけれど。

兄が好きだったのはどの曲だったのかな、
そう思いながら、聴き続けた。

「そうやってまた、音楽へ逃げて。」

父親に言われた。


確かに逃げだ。娯楽だ。
学校行っていない時点で権限がないため、
口答えはしない。


けれど、2年前、ワンオクを、WANIMAを、18祭のドロスを聴いていなかったら、どうなってた?


「そこまで2年前の私が強く見えて親に負担をかけていなかったんなら、良かったんじゃん?」
と皮肉混じりに思う。

と同時に、こんなに素晴らしい支えの良さがわからないなんてなんと可哀想、とさえ思う。

知っていることの、量と内容

話がヒートアップする中で言われた父親の言葉。

「お兄ちゃんお兄ちゃん言うけど、あなたはあの人のことをどれくらい知ってるんですか?!」

確かに、私は親しくなかった。
確かに、親が子供を1番知っている。

けれど、なんだよこのマウント。

親が1番子供をわかっていても、
勿論わからない部分は少なからずある。
逆に、
兄妹だからこそわかる部分もあるんじゃないか?

親にはわからなくて、妹にはわかること。

SNSを持つことが中々許されなかった兄の辛さ。
学歴自慢に伴うプレッシャー。
転校をしてから学校に馴染む大変さ。
私はいなくなる前から知ってた、兄の頑固さ。

それを、“何を知っているか”という内容でなく、
“どれだけ知っていてるのか”と量で責めてきた父親

そして思い出す、兄を小馬鹿にするように私に言ってきた当時の言葉。

この時「あぁ、家を出たい」と思った。

「家を出るために」

「家を出るために」勉強することにした。
冬休み明け学校復帰を目指して学習をスタートしたが、追いつくのは中々難しかった。 

結局、合計7日ほど行って、
3学期を終えようとしている。

そうやって親を突き放すのは、
間違っているとは思う。失礼だとも思う。
けれど、距離を置いて暮らすのも選択肢。
適度な距離感が少しでも+にはたらくなら、
いいじゃないか。
と、今の私は思う。

書き残したことをぽつりと書くと、
恋愛も、結婚も、出産も、全て世界の端っこに置かれたような感じがしている。

迷惑をかけたくないと何も言わずに別れた中3以来、友達と恋バナをするたびに彼氏欲しいとか言うけど、あれは変に思われないように大半話を合わせてたやつ。

何も想像がつかない。
人を好きになる資格がない。
打ち明け方もタイミングもわからない。
お兄ちゃんが自ら命をたつ家庭で育って、
成人までの子供の育て方もわからない。

そんな自分だからこそ、手に職は大切だし、
家を出るためにも、自活するためにも、
1人で生きるためにも、
まずは勉強するしか社会で生きられないなあ。と。

だから、勉強をし、大学受験をする
大学受験は、何かを変えてくれるような気もする。
自分に自信をつけるためにも、経験をする。
残り1年弱、やってみる。

随分長々と書いてしまいましたが、
ここまで読んでくれた方ありがとうございます。

中3からの私は、青春を灰色に浪費してしまっていますが、この経験は、必ず後の自分の人生で生きてくると思っています。
例えば、大学で社会学を学んだり、高校教諭になったりすることで、この経験をどうにか活かしていきたい、と考えています。これを自分の中で閉じ込めるのは、あまりにも勿体無いように感じるので、笑
自分が当事者になって思ったことを少し書きます。

事件や事故の被害者や自殺者の家族は、
勿論、深い悲しみに暮れます。

私がテレビ番組や記事を見るに、その時「周りは残された親御さんを心配する」という印象を受けます。世間一般的に考えると、親は、子供の1番の理解者。だからその分辛い。私は親ではないですが
自分の親を見ていてもそう思います。

けれど、兄弟も辛いです。
まだ成人していない場合、自分自身を整理できるスキルを身につけていない子だっています。
特に、自殺の場合、おおっぴろげにしにくい。
自分の責任だと感じる親に、助けを求められない。
そして名誉のために言うなと言われ、ほんの少しだけ恥に感じ、言えない。 
私の場合、受験に関係してくるため、今年受験生である高校の友達にも中々吐き出せない。

それなのに、お葬式などの場で「親を支えてあげてね」などと言われることもある。
あまりにも酷じゃないでしょうか。 

もし、このような状況に立ち会った時、
「親を支えてあげてね」という未成年の首を絞めるような言葉を、どうかかけないであげて下さい。
そして、親しい間柄ならば、相槌程度のリアクションで、話を聞いてあげて下さい。 
まだまだ世間を知らない17歳ですが、少しでも多くの方にこのような思いを知ってほしい、
と最後書かせていただきました。

一方、本文はあまりにも自己満な内容になってしまいました。ただ、自分の考えを整理し、前を向くには、必要でした。それでも、この文章で少しでもあなたの考えが深まったり、プラスになったりしたのであれば、幸いです。 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

執筆中聴いた曲↓
青いの。/ go!go!vanillas
老人と海 / ヨルシカ
光 / RADWIMPS
有心論 / RADWIMPS
億万笑者 / RADWIMPS
05410-(ん) / RADWIMPS
鳴らせ / マカロニえんぴつ
ハッピーエンドへの期待は / マカロニえんぴつ
八月の陽炎 / マカロニえんぴつ
エム / WANIMA
逃亡 / ヨルシカ

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兄が撮ったオーストラリアの空。
お土産のカンガルーのしおりは即無くしちゃったけど、コアラのキーホルダーは大切に持ってる、最後にもらったもの。

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