第二三節 もうひとつの大阪ダービー(前編)
スルガ銀行チャンピオンシップが開催される運びとなった。Jリーグカップ王者と南米のコパ・スダメリカーナ王者による国際試合 ― 公式戦 ― が日本でおこなわれることをぼくは新聞で知った。
日本代表もそうだけど、世界との戦いに向けて日本サッカーはレベルアップが必要だ。国家代表と同様にJリーグクラブも世界の強豪との真剣勝負がことさら重要になっている。
今回のような南米のクラブ対日本のクラブの構図は日本サッカー協会が考える強化策の一環なのだろう。嬉しい話だとぼくは素直に思った。
日本代表は前年のナビスコカップ王者”ノースオオサカ”のガンバ大阪。それだから、というわけではないけれど、東京にいるぼくにとってこの大会への関心はそれほど大きくなかった。
数日後、たったひとつの何気ないニュースによって、ぼくのこの関心がまったく逆の意味で変貌し、そして、肥大化していくことになる。
スルガ銀行チャンピオンシップは日本でおこなわれる。それはつまり、日本の代表チームのホームゲーム扱いとなる。
二〇〇八年のセレッソ大阪は目下、世界との戦いなどと口にすることすら憚られるJ2での戦いの真っ只中だった。
我らのレヴィー・クルピとともにJ1復帰だけを考えて戦っていた(とは言ってもセカンドディビジョン二シーズン目を迎えていたのだからそれほど偉そうにできない。しかも三回戦総当たりなんていう嬉しいのか悲しいのかもわからないレギュレーションに悩まされ続けるシーズンでもあった)。
なので、まったくもってそんな外野について考えている余裕などなかったのだ(この状況で他のクラブのことを考えるなど、本気のデートでもないのに勝負下着を履いていくくらいの無意味さだ)。
ぼくにはとってそんな興味すら失われているカード ― それこそ大阪のライバルでもあるJ1クラブの試合など ― であったし、たとえ国際試合だったとしてもなんの価値も見出せるはずがないし、得るものなど皆無だった。ただし、試合会場、というキーワードが出てくるまでは。
パラダイムシフトというかコペルニクス的転回とでもいうか。ようするにぼくの頭のなかで一八〇度すっかり見方が変わってしまった。
自分にとってどうでもいいと思っていた試合がそっくりそのまま自分ごとになっていく感覚。放置プレーを決め込むというぼくの極上のストーリーが突然、脚本やシナリオが根底から書き換えられていった。
第一回スルガ銀行チャンピオンシップの試合会場が我らの聖地・長居スタジアムでおこなわれる運びになった。マスコミから発表されたのは昨日のことだ。
イコール、セレッソ大阪以外のクラブが長居スタジアムでホームゲーム扱いの公式戦をおこなう、ということにほかならない(もちろん天皇杯ではガンバ大阪が長居スタジアムのホーム側を使うケースもあったのだけど、これはあくまでもトーナメントの妙であり、今回のケースとは相容れない)。
予想だにしない出来事が起こる様。この世の言葉だと青天の霹靂と言うだろうけど、この感情だけはそんな故事成語で表現できるはずがなかった。しばらくのあいだ何がなんだか理解がまったく追いつかず、ぼくの脳みそは全身に信号を送ることすらためらっているようだった。
確かに、長居スタジアムは大阪市の持ち物でもある。セレッソ大阪、ましてやセレッソ大阪サポーターがすべてを自由に扱えるわけがないことくらい無知なぼくでも重々わかっている。
だけど、そうだとしてもだ。この事象が意味するのは、セレッソ大阪のピンク色のフラッグに青と黒のペンキをぶっかける、ようなものなのとも容易に解釈できる。どこからどう見ても到底受け入れられることではなかった。
いてもたってもいられずぼくは大阪のアミーゴに電話をかけた。携帯電話というツールをあまり好んで使いたがらないぼくが電話をかけた意味をアミーゴは即座に理解した。
「これはいったいどういうことなん?」
つながると同時にぼくは聞いた。
お互いが興奮でなにを言っているのかわからない状態だった。
それでも「ニュースのとおりでありクラブにも確認したが今はよくわからない」という言葉と「セレッソとしては断っているらしいけど」という言葉だけが耳から入ってくる(本当にありがたいのは「クラブは断っている」が真っ先に会話に出てきたことだ。他はともかく、少なくともこの部分だけは正しい判断能力を有していてくれたことに心から感謝する)。
日本サッカー協会、大阪府サッカー協会というお上の指示であることは一目瞭然だった。それでも愛する我がクラブは、我がクラブのフロントは、断固拒否の姿勢を見せてくれている。
だとしたらぼくには、セレッソ大阪サポーターとしてのぼくにはなにができるのか。ぶら下がっているNEVER STOP NEVER GIVE UPと書かれたストラップが小刻みに揺れている。携帯電話を耳に当てながらぼくは言った。
「いや、これは駄目や。断固拒否する必要があるわ」そうひとことアミーゴに伝えて、ぼくは電話を切った。
幕末の志士たちもこんなふうに、いつも寝耳に水の出来事に苛まれ、怒りをつのらせてばかりだったのだろうな。長さ一〇センチにも満たない小さな機械を手に、気づくとそんなことを思い浮かべていた。
彼らだったら、こういうときに一体どうするのだろうか。どんな行動を取るのだろうか。
脳みそのなかで綺麗に整理整頓された幕末志士の行動(黒船来航から一五年後の箱館戦争まできっちりと時系列に並んである。恐れ入っただろう)。いつの間にか、まるでハードディスクに格納してあるデータをCPUとメモリーが呼び出すかのように、ぼくは眼球というモニタに次々とアウトプットしていった。
あの場面で高杉晋作は何を実行したのだろうか。あの瞬間に西郷隆盛はどのような指示を下したのだろうか。あのとき龍馬と慎太郎(才谷と石川とも言う)は何を考え、そしてどう行動したのだろうか。…いかん。野蛮な行為ばかりが視神経へと集まりつつある。
ぼくはわかっていた。暴力からはなにも生まれない。三途の川の石積みにも似た、読み込んでは履歴を消去するという、意味を持たない作業に没頭していた。
「これしかない」思わず口にした。
ところ狭しと散らばったままの無数の感情がどうにも収まりつかないけれど、極めて冷静に、努めて部屋の隅にあるデスクに添えられた安物の椅子にぼくは腰掛けた。
深く息を吸い込み、そして吐く。
吸い込み、吐く。
吸い込み、吐く。
深呼吸というやつはどうも慣れない。
子供の頃、いくらやってもこの反復行動が上手くできずに、小さな肺に汚れた空気を押し込んでばかりの毎日だったけど、この年齢になってようやく人並みにおこなえるようになった(やはりぼくは人とは違うのだろうかと思いはじめたのが、周りの同級生の吸う、吐くを垣間見たときだった)。
そんな昔話を思い出しながら何度も人並みの行動である深呼吸を繰り返した。混乱した気持ちが徐々に落ち着いていくのをぼくの心身が理解しはじめている。呼吸が安定するとふいになぜか言葉が頭に浮かんだ。
《日本を今一度せんたくいたし申候》
若き日の坂本龍馬が地元土佐の姉に送った手紙の一文。日本を洗濯だなんてそんな大きな物言いができる年齢を、ぼくははるか昔に通り越している。改めて強い気持ちを持ち直すために残された時間は、あるようでそれほどなかった。
齢三八。自分がやれることを精一杯、一〇〇パーセントを実行しよう。ぼくは目をつむって左手で胸を掴んだ。ぼくの、ぼくにとっての、もうひとつの大阪ダービーがはじまった。
ガタがきているNECのノートパソコンをぼくはおもむろに開いた。同時にオペレーションシステムがじっくり時間をかけて立ちあがろうとしている。
Windows XP(エクスペリエンス。経験という言葉が今のぼくに勇気をくれている気がする)という文字が一〇インチほどの画面の真ん中付近に浮かびあがってきた。
いつものID、そしていつものパスワードを素早く指で叩く。
ログイン完了。
画面の右下のほうにある文書作成アプリケーション。ぼくは青いアイコンを力いっぱいダブルクリックした(また青!このタイミングでこんなにも苛立たせるシチュエーションがあるのか。ぼくは神を呪うしかなかった!そりゃ全力でマウスのボタンを押すだろうよ!)。
ぼくをあざ笑うかのようにその青いアプリは立ちあがった。
やがて真っ白で無機質なワークシートが姿を見せる。手紙を書こうとぼくは思い立った。ひとまず文書のタイトルに『嘆願書』と入力してみる。はたして嘆願書でよかったのかどうかなんて、今のぼくには判断すらつかなかった。
肝心の中身はともかく、宛名には『日本サッカー協会会長』と記した。『セレッソ大阪サポーター有志』という文字で文章を締め括ろうとするぼくの手が止まった。
嫌な予感がした。
書きはじめてみると、本当にこれでいいのだろうか、という言葉がぼくの目の前を左から右へとよぎっていくのが見えた。正直なところ、この行為は、ぼくが自分ひとりで考えて自分ひとりで行動していると言えてしまうではないか。
はっきりとさせておかねばならなかった。これはただの身勝手で我侭な行為なのではないのか。もしかしてぼくは、仲間がいつだって信頼してくれて、わかってくれて、どんなときでも許してくれるものだと勘違いしているんじゃないだろうか。思い上がりではないのか。
ぼくはキーボードの上に置いた両手を止めた。わなわなと身を震わせながらぼくは自問自答した。正直にいってこの行動は、アミーゴどころか誰にだって相談すらしていないのだ。それこそ、ぼくの自己満足以外のなにものでもないと見られても仕方のない状況だ。
そんなことははなからわかっている。愛する大阪、愛する長居を離れてまだ一年とちょっとしか経っていないのになんだか疎外感という思いがぼくの心を揺さぶり続けていた。
だから、これが東京に存在するセレッソ大阪サポーターとしてのぼくの精一杯の表現だった。短絡的と言われようともとにかくそんな考えくらいしか導き出せなかった。
そこからは一心不乱にキーボードを打ち続けた。もうどれくらいの文字数になったかもわからない。『以上』という締めの言葉とともにぼくはまぶたを閉じた。なんの音も聴こえない。静寂がこの部屋ごと包み込んでいるようだ。
ぼくはかっと両目を開きA―四にして二ページの世界を眺めた。子供時代から感じ続けてきた、人とは違うなにかが文字に乗り移っている気がする。やっぱり手書きにしたほうがよかったかな。・・・また変なことを考えている自分がそこにいた。
ぼくの感情は大きく波打っていた。アミーゴにできてぼくにできないもの。ぼくにできてアミーゴにできないもの。どこまでいっても真っ当な人間には得手不得手がある。サポーターである以上、誰かがやらなければならないことがあるならば、誰かがやるしかないのだ。
何気なく一五年前のあの茶屋町での出来事をぼくは思い出した。間違いなく、最近のぼくはなんの貢献もできていなかった。歳を重ねて、大人になって、やるべきことやらなければならないことを上手く線引しようとしていただけだった。そんな自分自身をぼくは詰り、そして、恥じた。
今、この行動ができるのは世界中でぼくしかいない。そう思う、いや、そう思わなければならないシチュエーション。あのときの、あのファーストシュートと一緒だ。
ダービーマッチとは街を二分する戦いである。勝つと負けるとではこの先の人生に大きく影響する。首都で、たったひとりで、ぼくは向かっていく。三つ折りにされた余白の多い嘆願書を改めてぼくは眺めた。
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