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千慶烏子『VERNISSAGE』04

そしてわたしは男のなかで小さな呻き声をかすかにもらす。ながく尾をひく糸のなかばで断ち切られたような声をわたしはあげる。肩口に降りかかる枯れ葉をこまかく吹きはらうような息の乱れを、わたしはする。それはわたしのからだの遠いところ、わたしのからだのひどく遠いところからそれははじまり、護岸をなめる潮のひびき、葦の湿原を吹きまよう風の音色、深まる夜の岸から岸へと吹きいそぐ、おそらくはかささぎらしき鳥の声、そしてゆるやかに満ちよせ、たちどころにしりぞいてゆく男の息、そのあわあわしい白い水脈、そのかすかな満ち干、ながい跡を曳くそのあたたかな口唇にみちびかれて、わたしの声は、わたしのからだを這い、あるいは腋窩をつたい、わたしの胸のたかまりのそこに、小さな暈をひらく。そう。わたしの乳房のたかまりのそこに。男の息にうながされるままに。あなたの吐息はとても饒舌だとわたしは言う。あなたの瞳はとてもよく出来ている、とわたしは言う。もしかするとわたしは、あなたの瞳を愛しているのかもしれない。もしかするとわたしは、あなたに抱かれるままにわたしを見ているのかもしれない。あなたがわたしにひもといてくれるさまざまな光景とひとつになって、わたしのからだを、あなたと共有しているのかもしれない。わたしは言う。幼いころ、フライブルグの伯父さまに連れられて、よく湖へと行ったものだ、そこではとても大きな魚が釣れるのだ、と。


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