見出し画像

ベトナム歴史秘話:知られざる訪越者達~昭和天皇・ニコライ2世・ラーマ9世~

皇太子時代の昭和天皇、ロシアのラストエンペラーで皇太子時代のニコライ2世、前タイ国王のラーマ9世・・・歴史上著名な方々が、かつてベトナムの地を踏んでいることは、ご存知でしょうか?

今回は歴史に埋もれてほとんど知られていないであろう要人の訪越をテーマに調べて書いてみました。

1. 昭和天皇、生涯で唯一のベトナムへの上陸

今からちょうど100年前の1921年(大正10年)、当時19歳で皇太子であった裕仁親王(後の昭和天皇)は、外遊による見聞を広めることとヨーロッパ各国への国際親善を目的として、6ヶ月間(3月3日~9月3日)に及ぶ外遊に出かけます。

画像8

上記図の通り往路では、香港、シンガポールへと立ち寄りましたが、ベトナム(フランス領インドシナ)へは立ち寄っていません。しかし帰路の旅程を詳しく調べてみると、初の外遊において国外で一番最後に上陸した場所が、ベトナムのカムラン湾であることがわかりました。

昭和天皇欧州外遊の帰路_カムラン湾

国立国会図書館で公開「皇太子殿下御渡欧記念写真帖. 第10巻」67ページ目より

昭和天皇欧州外遊の帰路_カムラン湾2

国立国会図書館で公開「皇太子殿下御渡欧記念写真帖. [御帰朝奉迎之部]」26ページ目より

シンガポールを出港した御召艦「香取」と随艦「鹿島」は、1921年8月21日、カムラン湾へ到着します。フランスのインドシナ総督は副官を代理としサイゴン(現ホーチミン市)より軍艦で送り、8月23日には「香取」で晩餐会などが行われました。翌8月24日には上陸し、鉄道と並行する国道1号線(現QL1A)を自動車でドライブしたとあります。

カムラン湾は、ベトナムの観光地であるニャチャンへ行く際に利用するカムラン国際空港がある場所です。

では、なぜサイゴンに寄らずカムラン湾だったのでしょうか?ベトナム語で書かれた昭和天皇に関する書籍「Nhật hoàng Hirohito」76ページを見ると、「カムラン湾で燃料を補給するために停泊」したことが分かります。つまり現在の飛行機でも見られるテクニカルランディングということですね。

カムラン湾では、侍従である甘露寺受長を乗せた「新高」及び給炭艦「室戸」が合流し、甘露寺より父母である大正天皇と貞明皇后からの言葉を伝えたとあります。

カムラン湾を散歩する昭和天皇

カムラン湾での写真は、この上記1枚だけ見つけましたが報道関係者以外ダウンロードできない様です。(なお上記8月1日は誤りと考えられます)

1921年8月25日午前6時、艦隊(香取、鹿島、新高、室戸)はカムラン湾を出発、「室戸」は台湾へ、「新高」はマニラへ向かい、日本を目指す戦艦2隻(香取、鹿島)と別れました。そしてこれが昭和天皇の生涯で唯一のベトナム上陸となりました。

それから20年後の1941年7月31日に行われた南部仏印進駐。報告を受けた際、昭和天皇は、カムラン湾での体験を思い浮かべたのかもしれません。

なお次に日本の皇太子がベトナムの地へと訪れるのは、実に88年後の2009年となってからの事です。

2. 大津事件の直前にサイゴンを訪れたニコライ2世

今からちょうど130年前の1891年、明治時代の日本を揺るがした大事件と言えば、ロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)を警備にあたっていた警察官・津田三蔵が突然斬りつけたことで負傷させた大津事件があります。実はこの大津事件発生の1ヵ月半前、ニコライはサイゴンを訪れていました

1890年11月4日、父であるロシア皇帝アレクサンドル三世の名代としてシベリア鉄道の極東地区における起工式典に出席するため、まだ22歳だったニコライは、首都ペテルブルグから東方旅行に出発します。

画像12

画像左上の赤点(ペテルブルク)から開始し、ワルシャワ、ウィーン、アドリア海に面するトリエステ港から地中海、スエズ運河を経てインド洋を抜け、東南アジアではシンガポール、ジャワ島、バンコクを経て1891年3月27日午後3時にサイゴンへ到着します。

画像13

サイゴンでの歓迎の様子。中央に描かれた門は、現在のホーチミン1区メーリン広場にあるチャンフンダオ像の場所に一時的に作られた歓迎門です。

このサイゴンでの詳細は、1898年にParis F. Juvenによって出版されたフランス語の書籍「Nicolas II intime(ニコライ2世の時間)」の91~93ページ目に書かれています。

画像14

3月27日インドシナ総督がいるノロドム宮殿(現、統一会堂の場所にあった)でフランスとグエン朝による共同の歓迎式が開かれました。上記写真はノロドム宮殿で撮影されたもので、前列左から2人目がニコライ皇太子です。

それを終えるとニコライは夜、劇場でフランスの「ジロフレ・ジロフラ」を観劇し、さらには中国の劇場へも行き、町の庭で即席の田舎の舞踏会を開くなどして夜通し遊び、翌28日の朝の3時まで総督府に戻らなかった書かれており、自由行動を謳歌した様子が伺えます。(ちなみに日本の長崎では、お忍びで外出し、腕に入れ墨を入れるなどかなり自由奔放な性格であった様です)

画像15

2日目の28日は、植民地軍の閲兵式に参加します。上記閲兵式の絵に描かれた手前の建物の裏にある大きな建物は、「JUSTICE DE PAIX」であることが分かります。つまりこの閲兵式は、現在のグエンフエ通りにあるサンワタワーの前で行われました。「JUSTICE DE PAIX」については、以前書いたこちらの記事をご覧ください。

他にもサイゴンの隣町であるチョロンなども訪問して満喫した彼は、サイゴンを経ち4月4日に香港到着、その後広東、揚子江を漢口[現、武漢]まで遡行するなどして4月27日に日本の長崎へ。そして5月11日に大津事件に遭遇することになります。

画像16

1891年5月31日にフランスの「Le Petit Journal」にて描かれた大津事件の絵

3. タイ国王によるベトナム・サイゴン訪問

今から62年前の1959年、当時32歳であったタイ国王(ラーマ9世、プミポン・アドゥンヤデート)は、ベトナム共和国(南ベトナム)のゴ・ディン・ジエム大統領から招待を受け、サイゴンとフエを訪れました。

上記動画は、1959年12月17日の訪問前にタイの人々にした別れの挨拶(タイ語、音声のみ)。なおこの1959年12月18日〜21日にかけて行われた外遊は、1946年にタイ国王へ即位してから初の海外訪問先であった様です。

画像1

南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領との会談。場所は現在の統一会堂(当時の名称は、独立宮殿)ですが、現在の建物は1962年に建て替えられた為、それ以前フランス植民地時代からあった建物の中です。

画像2

会談後にサイゴンの独立宮殿の外で両国の国旗掲揚された際の写真

画像17

フエと考えられる写真。左はゴ・ディン・ジェムで右がラーマ9世

この訪問には、冷戦下で西側に与するタイと南ベトナムの友好関係を深める意図があったと考えられます。

ちなみにタイ国王のサイゴン訪問は、これが初めてでは無くこの29年前、1930年4月14~16日にもありました。それはラーマ9世の叔父にあたるタイ国王ラーマ7世の訪問です。

画像5

サイゴン港へ着岸しようとするラーマ7世を乗せた専用船

ラーマ7世のサイゴン訪問

1930年5月31日付けのL'ILLUSTRATIONに掲載されたサイゴン上陸時の写真

画像6

ノロドム宮殿(後の独立宮殿、統一会堂)で儀仗兵を謁見するラーマ7世

なお、このラーマ7世の訪問時の1930年4月16日、タイのサッカーチームが初めて国際試合を仏越混合チームとサイゴンで行い、4-0でタイが勝利したとあります。

画像4

勝利したタイのサッカーチーム

実はこのラーマ7世のサイゴン訪問に記念するものが、今もホーチミン市内にあります。それがサイゴン動物園にある青銅の象です。場所はコチラです。

画像7

ラーマ7世の訪問を記念してタイ国から送られた青銅の象は、1935年10月30日にサイゴンに陸揚げされ、1936年2月に「青銅象」像の除幕式が行われました。今後、自由にホーチミン観光できるようになった際は、この像を見てかつての要人往来を想像してみるのも楽しいと思います。

以上、いかがでしたでしょうか?

面白いと思ったらハートマークの「スキ」ボタンを押して頂けると励みになります。

4. 他にもベトナム歴史秘話を書いています




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?