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【短編】リンゴとあなたとアイスクリーム(後編)

「あんた、真面目だね。それで疲れた?」
「え?」
「今にも死にそうな顔してた。なのにリンゴを見る目はものすごく優しくて……。真面目すぎて一生懸命すぎて、それで疲れたのかなあって」
「……」
「そんな時は逃げたらいいんだよ。あんたはあんたのために生きてるんだから」  

 青い目に、さあ食べろと言わんばかりに促され、私は一口スプーンに掬う。溶けかかったアイスクリームの甘さとエスプレッソの苦さが口の中で結びついて広がった。

「なにこれ、美味しい……」

 その味わいに、思いがけない喜びに、甘えることに何の疑問も持たなかった遠い日々が蘇った。無邪気な自分が笑いかける。負けん気が強かった私。向こう見ずだった私。心の奥にめり込んでしまっていた勇気が奮い起こされる。さっきまでの無気力は消え去り、無性に悔しくなって私は彼を振り仰いだ。

「逃げろって、そんな簡単に言わないでください。それともなんですか? あなたは逃げたんですか?」
「あぁ」

 あっけらかんと言い放った彼に私は息をのんだ。人の痛みに土足で踏み込んだのだと気づき、うろたえてしまう。けれどそこにあるのは優しい微笑みだけだった。

「ごめんなさい、私……」
「いいんだよ。本当のことだから。俺は逃げた。だからここにいる。だけど逃亡生活ももう卒業だ」
「卒業?」
「見つけたのさ。逃げたけど、時間がかかったけど、自分を取り戻せた。しかしいいもんだなあ。あんた、さっきよりも断然顔色がよくなった。やる気が出てきたな」

 そう言って微笑んだ彼は、自分のことを話してくれた。  

 あまりにも忙しい毎日の中で、すり減っていくだけの自分に絶望し、それまでの何もかもを捨てて母の故郷にやってきた彼は、果樹園オーナー石倉さんと出会う。親子ほど年の離れた彼らは、けれどすぐに意気投合した。そして、廃業し消えていくだけの果樹園を託された。このご時世、生きていく糧にはならないだろうこの場所に、それでも何かを感じ、彼はその気持ちを引き継いだのだ。

「俺はここで過ごして癒された。このリンゴ、この自然。無償の愛っていうのかな。見返りを求めないものの大きさを教えられたよ。だからこの場所をなくしたくないって思ったんだ。それで色々考えて、まずは小さなバーカウンターを作った。だけど人は来ないし全然自信はわかないし、どうしようかって悩んでたところ。でも、あんたの顔見て腹が決まったよ」
「私の顔?」
「ああ。あんた今いい顔してる。すごくいい顔だ。やったなあって、こっちまで嬉しくなる。……俺、ここで本格的にカフェを始めるよ。散策とアイスクリームが売りのね。それで、死にそうな顔した奴を見かけたら、有無を言わさず引っ張り込んでアフォガートを食わす。そいつが驚いて、それから嬉しそうに笑う。いい案だと思わないか?」  

 私が小さく感嘆の声を上げれば、彼が満面に笑みをたたえた。それは底抜けに明るくて、目が離せなくなる。胸が音を立てて震え始め、言葉がするりと口をついて出た。

「小さい頃、リンゴを焼いたものにアイスクリームを添えて食べるのが大好きだったんです」
「へえ、あんたの町の郷土料理?」
「いえ。母が。リンゴを作っている町の出身なんです」
「なるほど。とろける甘さは幸せな思い出ってわけか」

 私は頷いた。素直に素直に、その言葉を噛み締めて頷いた。

「はい、守ってくれるみたいな。甘えていいんだって思えるというか……」
「いいな、そういうの。素直になれるって、いいよな。……あのさ、それもうちのメニューに入れたい、かな……」

 尻すぼみになる声に思わず目を見開いた。強気だとばかり思っていた彼が……。自信なげにそらされた目、その耳がほんのりと薄紅色に染まっている。

「そのレシピ、よかったら教えてくれないか? それとほら……やっぱり作るとなると、味の再現には経験者が必要だから……」

 それでも顔を上げ、真っ直ぐ私を見てそう言ってくれた彼に、ためらいなど微塵もなかった。私はブンブンと首を振った。あふれてくるものを、もう止められなかった。あとからあとから涙が頬を伝わっていく。困ったような、けれどとてつもなく優しい顔をして、彼がそっとそれを拭ってくれた。

「早く食べな。アイス溶けちゃうから」

 薄紅色の花びらが舞い散る果樹園で、私は自分が恋に落ちたことを確信した。大いに照れつつスプーンを口に運ぶ。「カフェの名前は『溶けそうなアイスクリーム屋』にするか」と彼が目を細めた。

 私の中で、新しい毎日が膨らんでいく。必要としてくれる場所で、私らしく生きよう。自分で選びとろう。もう卑屈さも悲しみもなかった。心からそう思えた。  
 見上げた先には青い瞳があって、胸の鼓動は収まりそうにない。春風に撫でられる頬が、リンゴのように真っ赤になっていないことを祈るばかりだった。

   

                   (了)



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