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【短編】リンゴとあなたとアイスクリーム(前編)

 昨日までの怒涛の仕事量が嘘のように、簡単に取れてしまった有給。なんだか拍子抜けする。 
 待っている恋人も家族もいない身としては、残業も週末出勤も率先してやった。あれこれ押し付けられても黙って受け入れた。いいように使われていると思いつつも、それしかなかったからだ。でも……。

「結局、私一人いなくなったところで会社は回るってことか。自分が思うほど必要とされてるわけじゃないんだ……」

 大きな組織の中の一つの部品でいることは、それなりに意味あることだろう。だけど、誰からも顧みられないってどうなんだ。自分が宙ぶらりんでずいぶん惨めに思えた。唯一の仕事にまでダメ出しされたような気がして、せっかくの自由時間が色褪せていく。色々な意味で、私は分岐点に立たされているのかもしれない。

「こういう時って、何か甘いものを食べればいいのかな。そしたら救われるのかなあ……」

 特に甘いもの好きではないけれど、なぜかそんな気がした。ふと、遠い日の幸せな時間の中にはいつも、ふんわりと甘い香りがしていたことを思い出したせいかもしれない。でもそれだけだ。私は首を振って歩き始めた。  

 気がつけばいつもの駅で、けれど今日は会社に行く必要はない。私は逆側のホームへと向かった。終着点は森林公園。季節が春の今、少しは景色を楽しめるんじゃないだろうか。なんだか魅力的なアイデアに思えた。  

 小一時間ほど電車に揺られ昼過ぎのホームに降り立てば、駅前はすでに公園の一部で、大型バスも停められる駐車場は平日とはいえそれなりに賑わっていた。管理事務所でカタログをもらったり案内を聞いたりしている人たち。ほのぼのとした彼らの姿に逆に気持ちが落ち込む。楽しげな笑い声なんて今の私には場違いだったかもしれないと、苦笑がこぼれた。  

 その時、駐車場脇に小さなアーチが見えた。吸い寄せられるように近寄ると、取り付けられたプレートには『石倉リンゴ園』の文字。ご自由に散策くださいの一言にかすかなざわめきを感じ、私はそっとアーチ下のスイングドアを押した。  

 かつての果樹園なのだろうか。下草は生い茂り、半ば野生化したリンゴたちが自由気ままに枝を広げている。春だった。まさに春。いつの間にか電車の音も人々の声も遠くなる。梢を揺らす風音とミツバチの羽音。枝々には優しげな薄紅色の花が揺れ、柔く霞む空はなんだか夢の続きのようだ。私はただひたすら自分を温める光を求めて、色づきさんざめく世界をさまよい歩いた。 ’ 

 パキッと小枝を踏みしだく音。我に返って振り向けば、麦わら帽をかぶった男性の姿が見えた。

「あ、あの、散策させてもらってます」

 私の言葉に男性は無言で頭を下げた。肯定の意味だろうと思い私も会釈を返す。仕事中だろうから邪魔にならないようにと、すぐにその場を離れようとしたら、思いがけず声がかかった。

「奥にカフェスペースがあります。よかったら後で寄ってみてください」

 目深にかぶった帽子で顔がよく見えなかったけれど、若い声だ。屈託のない気持ちがいい声。卑屈になっていた私の心に、それはじんわりと沁みた。途端、急に人恋しくなって、気がつけば私は口を開いていた。

「今でもいいですか?」
「もちろん」

 ついてきてくださいと促され、がっしりとした後ろ姿を追いかけて行くと、それは少し先の民家の一角にあった。「スペース」なんてとんでもない。小さいけれど本格的で、置かれた小物類なんかのセンスもすごくいい。洒落たバーカウンターにスツール。試飲スタンドくらいかと思っていた私は大いに驚かされる。

「何にします?」

 カウンターに回り込んだ彼が問う。メニューが書かれた黒板を見上げればエスプレッソの表示。私はすかさずそれを注文した。好きなわけではない。いや、それどころか飲んだこともない。けれど今日は、何かいつもと違うことがしたかった。 
 数分後、目の前に置かれた小さなカップを見つめた私は、おもむろにそれを取り上げ口に運ぼうとした。

「待て、待て。そのまま飲む気? そこの砂糖、少なくとも三杯は入れてほしいな」
「えっ、三杯! そんな甘いの飲めません」

 カウンターを出てきた彼があたふたする私の横に腰を下ろす。さっきまでとは打って変わってぐっと砕けている口調。歳が近いと判断したのだろう。でも嫌ではなかった。逆に親しみが感じられて少しだけ気分が浮上する。 
 大ぶりのガラスジャーとかぶっていた麦わら帽をカウンターの上に置いた彼が、すっと私に向き直った。その時初めて、私は彼の目が青いことに気がついた。

「エスプレッソはそうやって飲むものだよ?」
「でも……」
「じゃあ、甘いものは食べられるか?」
「少しなら」

 彼は自分のジャーにためらいなく私のエスプレッソを流し込んだ。

「あっ!」

 ジャーに入っていたのはアイスクリームだ。みるみるうちに溶け始め、私は焦る。

「あのそれ、ちょっと……」
「俺の生まれ故郷ではこうして食べるんだ、問題ない」

 その言葉とともに、ずいっとカップを押し出された。食べろと? 私は固まったまま彼を見つめた。


                      

                             後編に続く



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