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大切な場所〜図書室〜

自分の中で、いつまでも鮮やかな場所ってありませんか?

もうすでにこの世界からなくなった場所でも、そこにかつていた大好きな人が去って久しい場所でも、決して過去にならない場所、色褪せない場所。

私にもいくつかありますが、その一つが小学校の図書室。
今も夢に見ます。

もしかしたらそれはかつての姿ではなくて、自分の中で構築された別の場所になってしまっているのかもしれませんが、それでもそこは遠い日の何かではなくて、今もちゃんと「ここにある場所」なのです。

そんな場所に今、重なっていく空間があります。しばらく前に遠くへ旅立ってしまったドロシー(Stone Quarry Hill Art Park 創始者 )の家のホール。それは訪れるたびに私の中の図書室と重なっていったのですが、彼女と一緒に笑った時間を大切に縫い付けた今、なんだかすべてが融け合って、ついには一つになってしまったような気がします。

それは感傷ではなくて、淡い切なさをはらんだ幸せな時間なのだと感じます。有限の中に生きる私たちは、常に解かれ遠くなっていくものに囲まれているわけですが、それは目に見える形を追いかけた場合。すっかり光に溶けてしまったものも、この先ゆっくりと朽ち果てていくものも、私というものを軸に刻まれていく時間の中では永遠なのだと思っています。

いつの日か、私というものがなくなってしまっても、大切な場所には何かが残り続けるような気がします。託された何かがどこかへ、誰かへとつながっていくような気がしてなりません。

かつて書いた小さなエッセイ、図書室を愛した人へ、愛する人へ贈りたいと思います。

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                                                               at  Stone Quarry Hill Art Park                                                          

宝箱の話をしようよ

 

 今も時々、小学校の図書室の夢を見る。懐かしい色彩と形態。それは湧き上がる心模様が溶け出した空間。柔らかな光と本を読む喜びがまどろみとなって私を包み込む。美しい結晶のようなその部屋に戻ってくるたび、たまらなく嬉しくなって、私は微笑まずにいられない。

 小さい頃から本が好きだ。本はいつだって、私を知らない世界へと連れて行ってくれた。家の小さな本棚に並べられた本を夢中になって読んだ。お気に入りの本をどこまでも持ち歩いた。何度も何度も読み返していたら、とうとう表紙が取れてしまったけれど、セロハンテープで一生懸命貼り直し、その後もずっと読み続けた。

 そんな私が初めて図書室を見た日。それはごくありふれた小さな部屋だったけれど、私にとっては目の前により大きくて広い世界の扉が開けられたかのようで、知らず感動のため息がこぼれ落ちた。

 家の本とは違って、基本大切に扱われているそれらの本たち。しかしたまに自分の本と同じようなものを見つけることがあった。そんな時は、これは大好きな人が繰り返し読んだのだと思って無性に嬉しくなった。私はテープでそっと破れた箇所を補強した。私にとって図書室というものは、顔を合わせることはないものの、同じように本を愛する人との、時間を超えた出会いの場だったのかもしれない。

 入学した時校舎はまだ木造で、二階建ての二階、西側の一番奥が図書室だった。一階は図工室で、その脇から飴色に光る階段を上る。上りきると左手が入り口で、からからと引き戸を開けて入る。

 四角い部屋は腰窓のある南北にやや長く、その下に小さめの本棚が並んでいた。西側は部屋の幅のほぼ1/3くらいのスペースが、膝の高さくらいに上がっている。そのコの字型の壁全面が本棚で、背中合わせに立った大きな本棚で三つの空間に区切られていた。向かって右側に少年少女文学全集や海外作家のシリーズものがあり、私はそこをもっぱら愛用した。左へ行くほど辞典や図鑑のようなぶ厚い本が多くなっていたように思う。

 部屋にはいくつかの長方形の大きなテーブルとそれを囲む椅子があり、生徒たちの多くはそこで本を読んだ。そう決められていたような気がする。それでもたまに、ふと無人になった部屋で、奥の床や窓際の本棚に腰かけたりすると、なんだかわくわくそわそわして、ちょっとした冒険をしたような気持ちになった。

 何の変哲も無い、どこにでもあるような小学校の図書室での光景。でも、今でも夢に見る。そして夢の中で、それは年々姿を変えていくのだ。それを記憶が曖昧になっていくからだと悲しく思ったことは一度も無い。逆にその変化が、自分にとっての図書室というものを、より明確にしてくれるような気がするからだ。

 夢の中の図書室は記憶と同じように床も壁も本棚も木でできている。そこに柔らかな光が投げかけられ、私は自由気ままに本を読んでいる。窓を背にして本棚の上に腰掛けている時もあれば、床に座って棚にもたれかかり足を投げ出している時もある。それはとんでもなく特別な時間だ。

 解き放たれて無防備な心が温かさに包まれて安心し、誰に邪魔されることも害されることもなく、思うままに伸びやかに、果てしなく夢見る時間。

 やがて部屋の隅が盛り上がり、視界が変化し始める。私を抱いたまま、すべてが丸く丸く内側へ向かっていくのだ。それは年を追うごとに顕著になっていき、ついには図書室自体が球のようになった。

 けれど小さく閉鎖的になったわけではない。相変わらずそこには光が降り注ぎ、新しい世界からもたらされる未知数の感覚と感情が溢れ続けている。そう、その球体により濃厚により甘美に、自分自身との大切な時間が凝縮されていくのだ。これは私の図書室への想いの具現化なのだ、そう思った。

 本を読んだ場所というのは、その本の内容と同じくらい大切なものなのだと改めて感じる。本を思い出そうとする時、その内容が何だったのかは思い出せないままなのに、その日の温度までもがまざまざと私の中に蘇ってくることがある。

 読み終えた本を閉じ、涙ながらに見上げたある日の空は、日の当たる木肌の窓枠に縁取られて、例えようもないほどに柔らかな青だった。もたれかかった本棚はほんのりと温かかった。湧き上がってきた感情に翻弄され、行き先を求めて彷徨い戸惑うばかりだった私に、そんな図書室のあれこれが、そっとどこまでも寄り添ってくれた。

 図書室はただの部屋、箱ではない。それはすべての感情を包み込む至高の存在、夢を抱いた宝箱なのだ。そこには私たちが五感で感じた世界がぎっしりと詰め込まれ、色褪せることなくあり続ける。そしてその存在を想う者にいつだって、心震わせた瞬間の感覚や感情を、それをより一層深くしてくれたその日の情景を、時をつないで手渡してくれるのだ。

 私にとっての図書室と誰かにとっての図書室は、時代も違えば形も違うだろう。けれど、そこに宿る空気はきっと一緒なのだと私は感じている。大切な感情を守り続け、呼び起こしてくれるその場所は、迎え入れるすべての人の心を解きほぐし、深くその内に包み込んでくれるだろう。

 いつか、ふと立ち寄った図書室で、そんな空間を大切で愛しいものとして、ずっと心の中に持ち続ける誰かと出会い、それについて語りあってみたいと思ったりするのはおかしいだろうか。おかしいかもしれない。それでも私は、そんな日を想像せずにはいられない。

 見ず知らずの私たちをつなぐ図書室。二人で覗き込むそこにはきっと、いろいろなものを超えて、ただただ優しくて温かで、微笑まずにはいられない時間が広がっているに違いない。 



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