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『ひとりでいく』の多重露光

『ひとりでいく』は、鎌倉に住む関根愛が、仕事やワーケーションで訪れた遠方の街の人、食、景色との出合い、再会の中で見つけた気づき、家族と自身の過去の記憶に思いを巡らせ、著者の死生観にまで迫る詩的なエッセイだ。
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ジャンル横断的な読み物だが、まず人々の温度が、手作りの食を通して伝わってくるのが心地よい。尾道の年配の女性が「醤油めしは、ほんとうは釜で炊く。炊き上がったあと、醤油を打つ」と人生訓さながら語れば、「れんこん、糸をひいてるとおいしいんだよ」と話す、伊丹に住む友人の息子の成長に、著者は驚かされる。「塩と玄米粉でさっくり揚げた、間びき人参葉のかき揚げ」など、各地の新鮮な自然栽培の野菜や果物、シンプルでも繊細で丁寧な調理の描写が続々登場し、それを作る人のパーソナリティも滲み出てくるところに味わいがある。

また、南伊豆で野生アナグマ肉の解体に出くわしたり、奄美大島で著者が乗った車が単独事故を起こして地元民に救われたりするなど、テレビ番組であれば視聴率を稼げそうな、面白いエピソードも事欠かない。

しかし、彼女の旅はオーガニック・グルメを巡るそれでもなければ、ドラマティックな珍道中でもない。食と食の間、出会いと出会いの間に、静謐で内省的な間(ま)が広がっており、彼女は、アンチクライマティックな瞬間をワームホールの入り口のようにして、潜在意識の海に飛び込んでいく。そして、道中に散らばった美しくも鋭利な貝殻のような言葉の数々は、時折、読者に挑むように迫ってくる。

冒頭では、「ひとりでいきたい」という関根の、旅に対する決意表明と取れるような言葉を皮切りに、別れを強く意識する言葉が続く。

「旅にでると、別れの練習をしていると思うことがある。」
「別れるために人生があるとしても、それがうれしい。」

旅は確かに日常との別れで始まる。日常生活を共に過ごす者たちからの一時的な別れであると同時に、関係の終わり、また誰もが不可避である永遠の別れの、予行演習となる側面もある。南伊豆のある神社の境内で、関根は、「がっしり抱き合うふたつの大木」が、一方がもう片方を飲み込むようにしているさまを見て、思う。

「愛は、こういうことかと思わせた。かなしいをうれしいが包みこんで、くるしいがそれごとのみ込む。」

愛は、一筋縄でいく代物ではない。尾道で出会った、「くるしい」愛を通過したシングルマザーの女性たちが、「眠るへびをおなかの中に抱えている」のを、関根は感じ取る。では、日常の関係から解放される旅先で、関根が気楽な自由を享受するのかといえば、そういうことでもないようだ。彼女は道中に独りでいる時こそ、その場に不在の近親者とのつながりを、むしろ強く感じる。南伊豆で「方丈記」を読む時には、ふと叔父ときょうだいのことが思い出される。

「この腕が叔父の、きょうだいの、腕とつながっていると感じた。この足も叔父の、きょうだいの足と重なって、みんなでひとつになってすすんでいる。この目に映るのも、私ひとりが見ているのではない。」

また、朝7時に町内放送で流れる「ふるさと」で目覚めると、彼女は祖母の最期を思い出す。会津の老人ホームに入っていた祖母が亡くなる前の晩、当時、阿佐ヶ谷に住んでいた関根の前に、「あらゆるもののかたち」をした祖母があらわれて、「ことばでないことば」で彼女に伝えたメッセージがあるという。

「うちはそと。そとはうち。外の世界と思っているのは、じつは私の心のなかのできことだよ。私の心のうちで起こっているのは、外の世界で起こっていることだよ。内と外はいつも入れ替わっていて、ひっくり返っているよ。それが心をもって生きるということだよ。」

内の心が外の世界に反映され、外の世界が内の心にはたらきかけている、心と世界は表裏一体だと言っているようにも読み取れるが、不思議な言葉だ。

叔父ときょうだいの腕と足が自分のそれらと重なる感覚、祖母が説いたうちとそとの話。これらが霊的体験のドキュメントであるにしろ、マジックリアリズムであるにしろ、関根が意識を往来させる現実世界と精神世界の境界線上には、ちょうど写真フィルムの1コマの中に2枚の画像を重ねて写し込む多重露光のような、幽玄のイメージが立ち上がる。

そして、「うち」と「そと」の2つの領域に対する関根の関心は、古典の舞台となった地に立つ時、さらに膨れていく。彼女が朝一番に向かった京都の宇治川は、「朝霧がすっぽりおりて、その先になにかを隠しているよう」で、「この身で生きられないもうひとつの世界がそのむこうにあると、あってほしいと、その扉が今あきそうになっていると、浮舟に、薫の君に、紫式部に信じさせた光景」だった。彼女は、その次に訪れた平等院で見上げた木の枝についた雨粒を見て、「あのしずくが花ひらいたら、こちらとむこうの世界がすり替わる気がした。」

この世とあの世の境界の「すり替わり」に惹かれる関根の巡礼は、仏教思想的な領域に足を踏み入れていく。福岡のうきはに住むときえさんというおばあちゃんの家で黒アゲハを見ると、「今はもういないだれかがそばにきていると、うれしくなった。」そして、山菜料理を作ってくれたときえさんが「くよくよしない。人間はそれだけでいい」と話す姿に「如来さま」の像を重ねる関根は、自身の死生観をより鮮明にしていく。

「この世にはこの世の、有限の幸せがある。あの世にはあの世の無限の幸せがある。この世では時間がながれ、なにもかもが変化する。それによるくるしみがある。だからこそ感じられる、生きる幸せがある。ときえさんの顔は、この世界で幸せを見つけた人の顔だった。」

今回の旅の終わり、福岡空港で買い物をしたレジのおじさんが、関根の持つ財布に感心する。祖母から受け継いだ茶色の皮のポーチだ。関根は「祖母の先に私がいて、私の先にも、世界はあると思える。」と、締めくくる。旅を一人で行く彼女の傍にはいつも、「こちら」であれ「あちら」であれ、ここではない場所にいる大切な人が寄り添っている。

『ひとりでいく』は、著者が旅先で出会った人と食にまつわる繊細なエピソードの数々に面白みがあるが、僕は以上のように、彼女が旅の合間に感じる幻想的な感覚に特に関心をもった。そのため、「スピリチュアル」と受け取れる部分を多く引用しているが、この本が特に宗教的な読み物でないことは断っておきたい。「2024年初夏 韓国行きの航空券を買った明くる日に」この本の執筆を終えた彼女は、これからどんなイメージを重ね合わせていくだろうか。

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