『新版 教師になるということ』池田修(2013)学陽書房
以前この本を読んだときは,途中で挫折してしまっていました。
我が家には,そのような“中途読破積読書籍群”が文字通り山ほどあります。
このSTAY HOME週間のおかげで,たくさんの書物に巡り合うことができました。
そして,以前読めなかった書籍が,自分の「読書体力不足」や「読書思考不足」に原因があったことを痛感している次第です。
以前読んだ中で出合った印象的な言葉,
「本を読むということは,自分の本を書くということ」
が一番の理解の助けになると心に刻み,これからも読書記録をまとめようと思います。
さて,本書は,教師をめざしている人,教師歴の浅い人向けです。大学教員である筆者からの語りかけるような文体が特徴的な読みやすい書籍です。
しかし,初学者向けに陥りやすいハウツー本ではなく,WHYや文脈を大切にしながら,筆者が参考にした先行実践にもたどり着けるような一冊に仕上がっています。
つまり,形だけでも教師になってしまっている人向けにもオススメできる,ということです。(はい,私のことです)
孫引きになるのが大変失礼にあたるのですが,以下印象的なシーンを取り上げてまとめたいと思います。(原典はamazonで注文します)
「子ども理解」について(pp29-32)
ある学校で,雨の日に花壇に水やりをする子たちがいて,職朝で書く学級担任に指導するよう連絡があったそうです。
ある低学年の担任は,「今日雨が降っていますが,花壇に水やりをした方がいいのでしょうか。」と子どもたちに問いかけました。
ある高学年の先生は,「今日花壇に水をやるバカはこの学級にはいないよな。」と子どもたちに話しました。
ある1年生の担任は,子どもたちが昼休みに水やりに行く後をついて行って,「雨が降っているのに,どうして水やりしたの?」と問いかけたそうです。
さて,子どもたちはなんと答えたでしょう。
これは孫引きにあたるので,家本芳郎(2004)『〈教育力〉をみがく』子どもの未来社か,本書を実際にご覧いただきたいのですが,この例を通して,
「子どもを理解するということは,子どもの側から見える世界,子どもが理解している考え方というものを理解するということなのです。」(p32)
という風に筆者の考えをまとめています。
とかく私たちはよかれと思って,一面的なよさ,自分が考える当たり前を基準に指導をしたり,子どもの行動を理解したりしてしまいます。その前提を問い直すきっかけを与えてくれるのはやはり子どもであり,自分の中の子ども感覚を呼び覚ましていきたいと考えます。
教員の仕事内容にかかわる3つのたとえ(pp62-65)
①子どもが自転車に乗る
・小学校の先生…子どもが自分で進もうとする時,その補助輪を付けたり,付け方を教える。
・中学校の先生…補助輪を外す仕事,または外し方を教える仕事。
つまり,本格的な自立に向けての一歩目を踏み出させる。
・高校の先生…自転車と自分の関係をきちんと理解させる。
自転車をメインテナンスさせ,運転する自分とは何者なのかを考えさせる。
場合によっては,自転車から自転車への乗り換えを求め,運転の技術や心構えについて質を求める。
②子どもの側から考える
・小学校の先生…小学生は山の中に隠れている宝石の原石。自分が何ものかがわからない。この山の中に埋もれている原石を取り出す,または出てきやすいように工夫する。
・中学校の先生…自分が何の原石なのかを理解させ,磨くことを求める。
・高校の先生…磨かれた宝石をどの用途に使うのかを考えさせる。自らがどの方向に進むのかを見守り指導支援する。
③作文の添削
小学校の先生…作文の言いたいことを読み取り,赤ペンで書いてあげる。言葉足らずの部分に具体例を示す。
中学校の先生…『良く分からないから書き直しなさい』
言いたいことがあるなら,誰にでもわかるように書けるようになれ」と指導する。
高校の先生…『それでは,これに対する反対意見にはどんなものがある?』
生徒の「視野をさらに広げ,考えを深めよう」と指示を出す。
これは,多少加工は必要だと感じますが,小学校の低・中・高学年にも当てはめることのできる指導方法です。ただし,その子に応じて,があくまでも大前提であることは間違いありません。
「子どもを見る時に,大事にしなければならないのは,授業中の姿だけではなく,その子どもが好きなことをやっている時の姿も見るということです。人間はやらなければならないことをやっている時と,やりたいことをやっている時,やってはいけないことを我慢している時の3つからできていると私は思っています。
教師はどうしても授業中の姿を中心にして子どもを見てしまいがちですが,子どもが好きなことをしている時の姿もしっかり見たいものです。」(p73)
子どもを多面的に見るとは月並みな言葉ですが,教師の見方を少し変えるだけで,その子の無限の可能性に気づくことができるということを再確認させてくれる,筆者の温かい心が見えてきます。休み時間に子どもと過ごしたり,子どもの習い事を見に行ったりすることには,このような意味付けができたんだと,その重要性を再確認できました。
「授業における指導の力とは,
『つまらないを,おもしろい! に
分からないを,分かった! に
できないを,できた! に』
変える力だと言えるのではないでしょうか。」(p105)
それぞれ,「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能」に対応するそうです。今の観点からすれば,「学びに向かう力,人間性等」「思考力,判断力,表現力等」「知識及び技能」でしょうか。どちらにせよ,教師の不断の努力によって実現できることは間違いなさそうです。
「私は,メンバーが納得した目標に,緩やかに向かって行く集団ができればいいなあと思って指導していました。そして,その集団が心地の良い人は,この集団には辛い人がいるんではないかという思いを抱くことができ,辛い人は,こうしてくれないかと改善の条件を小さくても良いから声に出せるような集団をつくりたいと思って指導してきました。これを達成しようと努力を重ねるクラスが,良いクラスではないかと思ってやってきました。」(pp113-114)
今の自分が感じている他者への思いやりに満ちた学級づくりそのものを言語化されていると感じています。学級とは,自分だけが心地よい人がのさばる空間ではあってはならないのです。特に教師が。
林竹二先生という宮城教育大学の学長をされていた先生の言葉
「分からないことがあったら,子どもに聞けば良い」(p135)
これは,自分もこれまで実践して,その効果を体感済みです。これからも子どもたちに問い続けたいと思います。
自分の授業に対する評価は次のような規準を考えて行っていました。
一,楽しく真剣な雰囲気で行うことができたか。
二,授業を受ける前と後を比べて,この授業を受けなければ得られないものが生徒に生まれたか。
三,ここで学んだことは,子どもと子どもたちの日常生活や将来にも役立つかどうか。
四,ここで学んだことは,人類を幸せにするきっかけを作っているかどうか。(p169)
この三,四の尺度に耐えうる実践は,生半可では生まれないと反省しました。そもそも教科書ありきの学習では,ここにたどり着けないように思います。教科書を読み込む,学習内容を自分自身で措定する,批判的な態度でリフレクションしていこうと思います。