ワーグナーのオペラの基礎知識【後編】―ワーグナーとドイツ帝国の成立、そして「バイロイト音楽祭」
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ワーグナーのオペラの基礎知識【後編】―ワーグナーとドイツ帝国の成立、そして「バイロイト音楽祭」

『帝国のオペラ』という本を題材に、ワーグナーとバイロイト音楽祭についての基礎知識をまとめるシリーズ。
今回は、ワーグナーの人生とともに「当時の世界情勢」(=歴史) を取り上げる。
これを読めば、なぜワーグナーが自分自身でゼロから「バイロイト音楽祭」を作り上げることができたのか、そのワーグナーの凄さがわかるはず!



ワーグナーが生まれた頃、当時の世界情勢は…


ワーグナーが生まれたのは1813年、当時のザクセン王国(現在のドイツ)であった。
(ワーグナーについて復習したい人は前編の記事をどうぞ!)


ワーグナーが生まれた1813年の世界は、まさにナポレオンが敗北する間際であった。
翌年1814年にナポレオンは敗北し、そこからウィーン会議が始まった

【ウィーン会議とは】
1814年から1815年にかけて行われた国際的会議である。
ナポレオンによって生じた混乱に終止符を打ち、新しい国際秩序を確立するために開催された。
参加国はイギリス・ロシア・フランス・プロイセンであり、司会をつとめたのはオーストリアの外相(のちの宰相)であったメッテルニヒであった。


ウィーン会議の最終議定書、すなわち「ウィーン議定書」は、
フランス革命以前の領土や主権を復帰させることを基本原則として作成された。

これに定められた、各国の領土が以下の地図である。

ウィーン体制後のヨーロッパ

(コトバンク「ウィーン体制」に掲載されている小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)より)


だいぶ現代のヨーロッパ地図に近づいているのがわかるだろう。


ワーグナーと関連することとして、ここで注目すべきは、

「ドイツ連邦」
(ドイツ帝国やドイツ王国などの名称ではない)

である。

すなわち、この時点では、
ドイツは「一つの国家」として成立したのではなく、「複数の主権国家の連合体」であった。


ワーグナーが生まれた「ザクセン王国」も、ドイツ連邦に属する一つの主権国家であった。
(上記図の④と記されているところ。)

【より正確には…】
ザクセン王国の一部はプロイセンに吸収されプロイセン王国に属し、
ザクセン王国の残りはザクセン王国という一つの主権国家でありつつ、ドイツ連邦に属した。


なお、この記事で後ほど登場する、ワーグナーとかかわりがある国は、以下の国々なので、地図上を再度確認してもらえるとありがたい。

・プロイセン王国
・オーストリア帝国(ハプスブルグ家)
・ドイツ連邦
・フランス王国
・ザクセン王国(ドイツ連邦の一つ、上記地図の④)
・バイエルン王国(ドイツ連邦の一つ、上記地図の⑤)


ワーグナーが生まれた頃の世界はこんな感じだっだ。


ワーグナー16歳まで、当時の世界情勢は…


このウィーン会議からしばらくは、ウィーン議定書に定められた状態、通称「ウィーン体制」が続いた。

確かにこのウィーン体制によってナポレオン以前の世界情勢に領土的には戻されたとはいえ、国民・市民たちにとってのナポレオンの精神的な影響は消えてはいなかった。

ナポレオンの侵略によって、ナポレオンが掲げた「自由と平等」の精神とナショナリズム(国民主義)がその土地の市民たちの心には浸透しきっていた
この心は、ウィーン体制の保守的な体制とは相反するものであった。そのため、市民たちのウィーン体制への反発心は日に日に強まっていった。


ウィーン体制への抵抗運動として、ヨーロッパ各国では自由主義運動やナショナリズム運動、独立運動や統一を目指した運動が盛んに行われるようになった。

それはワーグナーが少年期を過ごしたドイツも例外ではなかった。「連邦」ではなく、ドイツ語を話す民族が一つにまとまった「国家」への統一を目指す運動が登場していた。
(1815年の「ブルシェンシャフト(学生組合)」の結成など)


だが、1820年代までのこれらの動きは、ウィーン体制とメッテルニヒによって徹底的に潰され続けていた


ワーグナーが16歳までの世界情勢はこんな感じであったのだ。



ワーグナー16歳から35歳まで、当時の社会情勢は…


暫くは、ウィーン体制からの脱却を目指した運動がことごとく潰される状態が続いていた。

世界的にこの状態が変化するのは1830年フランス七月革命からであった。

フランス七月革命によって、市民の決起により国王側が敗北した。これにより、七月王政呼ばれる、少し制限されているが選挙を通して政治を行う制度(制限性の立憲君主制)が成立した。
ウィーン体制は絶対王政のような保守的な体制を守っていたため、この七月王政によりウィーン体制の一部が崩壊することになった。


この影響はしだいにヨーロッパ各国に波及していく…が、ここでは、ワーグナーのいるドイツに絞ろう

ドイツで統一の動きが表面化してきたのは、
1848年のドイツ三月革命やフランクフルト国民会議からであった。
残念ながら、この時点ではこれらの動きは潰されたが、自由主義が強く叫ばれ、ドイツの統一が強く求められたのだ。


ワーグナーが35歳の年であった。



ワーグナー49歳から52歳まで、当時の社会情勢は…
(祝祭劇場のミュンヘン計画とその頓挫)


引き続きドイツに絞って話を進めよう。


ドイツが統一の実現へとつながる道を歩み始めたのは、
プロイセン王国の首相にビスマルクが任命された1862年からともいえる。

ビスマルクは、話し合いや民主主義的方法ではドイツの統一は実現できないと考え、武力によるドイツ統一を目指す「鉄血政策」を進めた人物である。このビスマルクの指示に従い、プロイセン王国はドイツ統一を実現するために戦争の準備を進めていく。


この時、ワーグナーは49歳であった。
なお、ワーグナーはビスマルクという人物に対し警戒感と反感をあらわにしていたようである。

【ワーグナーから見たビスマルク】
ワーグナーは後述するバイエルン王国の国王であったルートヴィヒ2世に対する手紙で次のようにビスマルクのことを書いていたらしい。

「ビスマルクという人物を警戒すべし」
ビスマルクは「野心に駆られた一人のユンカー」
ビスマルクが「頭の弱い国王(プロイセン王…(略)…のこと)を欺き、火遊びをさせている」
(『帝国のオペラ』P.29より)


さて、ここでドイツの歴史から脱線し、ワーグナー個人の話をしよう。
ビスマルクが首相に就任してから2年後の1864年、ワーグナーはバイエルン王国の国王であったルートヴィヒ2世に招かれた。そこからワーグナーはルートヴィヒ2世のと親交を深め、経済的にも援助してもらい、ついには、翌年1865年にバイエルン王国の首都・ミュンヘンで《トリスタンとイゾルデ》を初演した。
このため、ワーグナーはバイエルン国王のルートヴィヒ2世に援助してもらうことを前提に、バイエルン王国の首都ミュンヘンで自身の作品のための祝祭劇場を建設し、音楽祭を行おうと目論んでいたのだ。


だが、ワーグナーはその浪費癖や悪い噂などが原因で内閣や国民から嫌われていた。(実はワーグナーが持つ政治的な影響力を排除したいという思惑も働いていたようであるが…)

そのため、早くも、《トリスタンとイゾルデ》を初演した1865年の末には、バイエルン国王のルートヴィヒ2世は、ワーグナーを遠ざけねば退陣すると内閣から迫られ、ワーグナーをスイス・トリープシェンへ送り出すことを決めた
もちろん、ここでミュンヘンで自身の作品のための祝祭劇場を建設し、音楽祭を行う計画は頓挫してしまったのだ。

(合わせて、中編の「ワーグナーの「バイロイト音楽祭」計画ワーグナーが求めた理想とは?」の項目も参照してほしい)



ワーグナー53歳、当時の社会情勢は…
(ワーグナーの政治的影響力)


さて、ドイツの歴史に戻ろう。

ワーグナーがスイス・トリープシェンに移り住んだ翌年の1866年に、
普墺戦争が勃発
した。
(オーストリア帝国+バイエルンなどの南ドイツ v.s. プロイセン王国)

これに勝利したのはプロイセン王国であった。
勝利したプロイセン王国は、オーストリア帝国から領土を奪いはせず影響力だけを排除し、「ドイツ連邦」を解体し、プロイセン王国の国王をトップ(盟主)とする「北ドイツ連邦」を成立させた


面白いことに、この戦争中にワーグナーの元へ一つの連絡が入った。
その連絡は友人を介したビスマルクからであり、バイエルンがオーストリア帝国に加担しないようバイエルン国王のルートヴィヒ2世に働きかけてほしいという内容であった。(ワーグナーはビスマルクが嫌いだったのでこの依頼を拒否したそうだが…)
この連絡がワーグナーのもとに入ったことは、ビスマルクが、ワーグナーを、バイエルン国王のルートヴィヒ2世に対して大きな影響力を持つ人物として認識していたことを示す。
そう、ワーグナーは政治的影響力を持つ人物であったのだ。
(すごい!!)


これはワーグナーが53歳の年であった。


ワーグナー53歳から58歳まで、当時の社会情勢は…
(ドイツ帝国の成立とバイロイト訪問)


バイエルンが敗北し政治的・軍事的主導権を奪われたことにワーグナーは深く絶望し、同時に、時代の変化を敏感に感じ取り、理解した。
以降、ワーグナーは自身の音楽活動と政治活動において、プロイセンの力を排除するのではなく、うまく利用することにした
(最初は嫌っていたのにね…)

実際に、1866年の普墺戦争の後には、バイエルン国王のルートヴィヒ2世と距離ができ始め、逆にビスマルクに対する態度が軟化していく。
なんと、ビスマルクに『パリを前にしたドイツ軍に寄せて』という詩を献呈したりもし始めた。
こうしてワーグナーは、ビスマルクによるドイツ統一の後の自身と自身の音楽作品の立ち位置を模索し始めるのだ、と『帝国のオペラ』では語られている。



そして、プロイセン王国はさらに力をつけていく。
ビスマルクはドイツ統一にフランスとの対決が不可避であると考え、フランスとの戦争の準備を開始し、

1870年、普仏戦争が始まった
(プロイセン王国+北ドイツ連邦 v.s. フランス)

戦争を有利に進め、フランスのパリへの攻撃をしている最中
ビスマルクは、ドイツ統一、ドイツ帝国成立の準備を推し進めた。
ドイツ連邦の各国との根回しを成功させた。

そしてフランスに勝利した直後、
ヴェルサイユ宮殿にて、プロイセン王国の国王であるヴィルヘルム一世がドイツ帝国の皇帝に即位する式典(戴冠式)が開かれた。

この1871年、ドイツは「ドイツ帝国」として念願の統一を果たし、加えてヨーロッパの最強国となったのだ。
市民も心に抱かれたナショナリズムが最高潮に達し、高揚感に包まれていた時であった。


この年は、奇しくも、ワーグナーがバイロイトを初めて訪れた年である。

ワーグナーが58歳の年であった。


ワーグナー58歳、バイロイト音楽祭の開催に奔走する


さて、バイロイトを訪れたワーグナーは、自身の音楽祭を開催する街をバイロイトに決めた
ワーグナーが抱いていた自身の音楽祭を行う街の理想は「近代文明、政治的思惑とは隔絶した地」であり「田園的な、風光明媚な場所」であり、その理想にバイロイトがぴったりであったためだ。


【実はこんな思惑もあったかも?】
バイロイトは、バイエルン王国の領地の中ではあるが端にあるためバイエルン国王のルートヴィヒ2世の影響力が比較的に小さい土地であり、反対に、プロイセン王の血筋であるホーエンツォレルン家の傍流の家系が治めてきた土地である。
そのため、先述した通り、バイエルン王国(ルートヴィヒ2世)と距離を取り、逆にプロイセン(ビスマルク)と距離を縮めたいという政治的な思惑もあったのではないか、と『帝国のオペラ』では語られている。

(合わせて、中編の「バイエルンの歴史的・文化的な背景」の項目も参照してほしい)


その後、ワーグナーはバイロイトに祝祭劇場を建設し、バイロイト音楽祭を開催するために奔走する

ざっくりとだが、そのワーグナーの仕事を挙げてみよう。

リヒャルト・ワーグナー協会を設立して資金を集め
演奏旅行を行って費用を調達し
バイエルン国王のルートヴィヒ2世に費用の貸付をお願いし、(多額の借金を背負ってまで!)
ドイツ皇帝でありプロイセン国王とビスマルクに寄付を依頼し

バイロイトの市参事会やバイロイトの市長に働きかけて土地を確保し
祝祭劇場の設計者と自身の作品の上演に最適な劇場を設計し

ドイツ各地を巡り楽団員を募り
バイロイト音楽祭の準備委員会も設立して音楽祭開催の準備を進め
バイロイト音楽祭で初演するための《ニーベルングの指輪》の作曲もし、
練習に参加し、

そしてようやく、バイロイト祝祭劇場にて、四夜、計14時間の《ニーベルングの指輪》の初演が行われた。



これだけのことを成し遂げられる人がワーグナー以外にいようか。

ワーグナーの優れた政治的手腕でもって、バイロイト音楽祭の魅力をアピールし、人を巻き込み、綿密に根回しをし、資金を集め、事務作業をこなし、バイロイト音楽祭を開催した。
ワーグナーの優れた作曲技術でもって、様々な楽曲を完成させ、超長編のオペラも完成させ、そして人々を魅了し、名作が現代まで残っている。

このように、政治的にも音楽的にも類を見ない、追随を許さない力を合わせ持つ人物は、歴史的にもワーグナーくらいであろう。

ワーグナーのすごさには感服である。




終わりに

以上で、3編に渡るワーグナーとバイロイト音楽祭を巡るまとめが終わった。

【3編の記事の内容】
前編:ワーグナーとバイロイト音楽祭、《ニーベルングの指輪》の基礎知識、並びにドイツの地理を扱った。
中編:ワーグナーが「バイロイト音楽祭」に何を求めていたか、バイロイトという街の歴史
・後編:ワーグナーが政治とどのように関わったのか、バイロイト音楽祭の実現にどのように政治が関わったのか


このようなことを知ると、「バイロイト音楽祭」を実現させたワーグナーの凄さを理解できることだろう。
同時に、ワーグナーという人物が一人の作曲家という枠に収まらないほどの、歴史的・政治的な偉業を成し遂げたことがストンと納得していただけると、書き手としては嬉しい限りである。

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