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アナテマ!「聖絶せよ」とは? ανάθεμα(ギ), anathema(英)

”根元からちょん切ってしまえ!?”

 まあ、なんて、はしたない表題 ….
そう思われた皆さん、ごめんなさい。
お偉い先生方にはお叱りを受けそうなことも
重々承知のうえですが、この言葉は、
使徒パウロが用いた言い回しなのです。
聖書がそんなはしたない言葉
使うはずないじゃない、どこにあるの?
はい、こちらです。どーぞ。
ガラテア書5章12節―――。

あなたがたをかき乱す者たちはいっそのこと切除してしまえばよいのです。

新改訳2017 ガラ5:12

 せ、せ、切除って …… 何を?なんて、野暮なことは聞かないで。他の訳も併せて読んで想像してみてください。男子は皆、下半身がムズムズしてくるはずです。

【口語訳】あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。
【新共同訳】あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
【NIV】As for those agitators, I wish they would go the whole way and emasculate themselves!  ※意訳:あの扇動家たちに関しては、自分自身で去勢してもらいたいほどだ!
【NASB 1995】I wish that those who are troubling you would even mutilate themselves. ※意訳:あなた方を悩ませている人たちについては、自ら去勢してもらいたい。
【ASV】I would that they that unsettle you would even go beyond circumcision.  ※意訳:私は、あなた方を不安にさせている者たちが、割礼以上のことをしてくれることさえ願う。

※参考:リビングバイブルでは同じ個所を「割礼を受けさせて、あなたがたの肉体の一部を切り取りたいと思っている教師たちには、いっそのこと、自分自身をあなたがたから、切り離してもらいたいものです。とにかく、手を引いてくれればよいがと、私はそればかり願っています」と訳しています。(長ッ) ところが「手を引いてくれ」「(信徒たちとの)交わりを断ってくれ」など原文の意味とは、別の内容を付加してしまっているので、この箇所の訳としてはNGです。

 さて、どの訳文を読んでも、翻訳者たちが四苦八苦している様子が目に浮かびます。威厳のある、丁寧な表現を選びとり、却って伝わりづらい表現になっている気がします。ここでは道徳的、学術的な制約を取っ払って、普段使いの言葉で平易に表現しようと思い、表題の表現「根元からちょん切ってしまえ!」に収まりました。聖書を書き換えよう、上書きしようなどという意図は毛頭ありません。堅苦しく見える聖書を身近に感じてもらいたい一心で書いてます。


先ずは、ガラテア書の概要、および、背景を記しておきましょう―――。

  1. パウロは、第一次伝道旅行でガラテヤ地方を訪れ、主に異邦人で構成された信者たちの共同体を創設

  2. パウロが離れた後、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒(ユダヤ主義者)がガラテヤ地方に現れ、福音信仰だけでは不十分、ユダヤ教の律法(割礼)を守ることが必要だと説いた

  3. 福音とは別の「ほかの福音」に惑わされたガラテヤの信徒たちに対して、パウロは憤りを感じ、神が提示された福音が唯一の福音であることを強く主張した

  4. パウロは使徒としての資格や経歴を説明し、エルサレムの教会や他の使徒との関係を明らかにした

  5. パウロはアブラハムやモーセなど旧約聖書の人物や物語を引用して、人は信仰によって義とされることを論証

  6. パウロは信者としての自由や御霊による歩み方、「新しい創造」という概念を説いて、ガラテヤの信徒たちに励ましと勧告を与えた

 ここで問題となっているのは、1にあるようにパウロが建てた教会に、後で侵入してきたユダヤ主義者のこと。彼らの主張は「福音信仰だけでは不十分」、救いに必要なのは「モーセの律法に従って、割礼*を受けなければならない」というものでした。
※参考:モーセの律法にある割礼*とは、ユダヤ教の宗教的儀式として、男性の陰茎の包皮を切除することです。男子はすべて、生まれてから8日目に割礼を受けるべきと定められています。割礼は、律法に対する従順を表すもので、ユダヤ人であることの証でもあったわけです。

 しかしパウロはここで、後から来たユダヤ主義者たちに対して、先っぽをチョコンと切り取るだけじゃなくて、根元から切ってしまえ!と吠えているわけです。要するにパウロ先生、ブチ切れていらっしゃいます。では一体、何に対してブチ切れているのでしょう?

パウロは、何に対してブチ切れてるの???

パウロの怒りはどれくらい?

 パウロがブチ切れている様子は、今回、取り上げたガラテア書の冒頭部分で明らかになります。ここでクイズを一つ。大見出しの「アナテマ」が登場するのはこの箇所なのですが、日本語ではどの言葉が「アナテマ」に当たるでしょう? 当ててみてください。ギリシャ語ではανάθεμα、英語では anathema と綴ります。ヘブル語では「ハラム」でヨシュア記等で頻繁に使われた言葉です。敵などを「滅ぼし尽くすこと」「聖絶すべき事柄」という概念から出た言葉だそう。

6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。 8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。 9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。

ガラ 1:6-9

 いかがでしたか? 分かりました? 答え合わせをしましょう。「アナテマ」に当たる言葉は8節、9節に出てくる言葉、のろわれるべきです。少しソフトになったと感じるのは自分だけでしょうか。

 パウロは、1~5節で一通りのあいさつを済ませた後、いきなり本題に入ります。8節、9節は、ASV訳ではどちらも、"let him be anathema. "となっています。のろわれるべきというより、本来の言葉が持つ強い意味から察するに「その者は絶たれるべき」とか「滅ぼされるべき」という強い意味合いで使われており、さらに同じ文節で「アナテマ」が二度繰り返されています。現代のテレビやYouTubeであれば、BANされてもおかしくない。

 パウロのキレ具合が伝わるでしょうか? パウロ先生、かなり物騒なことを口走っていたわけです。誤解しないでいただきたいのですが、ユダヤ人として生まれた場合、モーセの律法に従うことは今も昔も善いこととみなされます。パウロ自身、割礼を済ませていたはず。ただし「ユダヤ人として生まれたなら」です。異邦人である私たちが割礼を受けるということは、今も昔も「ユダヤ人になれ」と言われているようなもの。パウロがキレているのは、割礼を受けること自体への是非ではありません。割礼を受けるという事象の奥に潜む「悪意」にブチ切れているのです。

 もう一度、当時の状況を振り返ってみましょう。

 第一次伝道旅行でパウロが建てた教会に、後々ユダヤ主義者たちがやってきます。彼らは「本当に救われるためには割礼を受けなければならない」と説いて回っていました。これをパウロはほかの福音と呼んでいます。

※参考:ほかの福音とは? 原語であるギリシャ語には「同じ種類の別のもの allos」/「異なる種類の別のもの heteros」という2種類の言葉があり、この箇所では後者が使われています。よって、ユダヤ主義者の説いた内容は、福音とは本質的に異なるもの、福音ではないと断言しているのです。彼らの行いには、救いを否定するのではなく、何か他のもの(行い)を加えることにより福音の本質を変え、破壊しようとする圧倒的な「悪意」がある、とパウロは指摘しているのです。

 ユダヤ主義者は「信じるだけでは不十分」で「律法を守らなければ救われない」と説いて回り、当時のガラテア人は「そうなのかなぁ?」と半信半疑に陥ったり、言われるままに割礼を受けてしまった者が現れたのでしょう。本来、神の計画は「(福音を信じる)信仰」だけで救われるはずのもの。ところが人間の手により後々「信仰+律法」によって救われると危うく書き換えられるところだった。ここに「悪意」があります。

 誰が思いついたのか知りませんが、恐ろしく巧妙です。ユダヤ主義者たちは見た目も柔和で、振る舞いも立派だったのでしょう。しかし律法の順守や行いの立派さがある場所には必ず、自らを誇り、他者を見下すプライドが存在しており、これは神が嫌われます。神が準備された、信仰による救いの道には「誇り」の入り込む余地がありません。

 ちなみに、この時代、ユダヤ主義者たちが持ち込んだ「信仰+律法」による救いは、現代社会における「宗教」全般に当てはまる構図です。残念なことに一部のキリスト教会も、このほかの救いの構造に見事収まっています。

※参考:パウロの言う律法とは? パウロは書簡の中でも度々、律法という言葉を用いています。これは「モーセの律法」のことで、全部で613個あります。消極的な命令「~してはならない」365個、積極的な「~しなければならない」命令248個の総称です。原語では度々「単数形」で「ユニット」として用いられます。これらを現代風に言い換えれば「行い」になります。

       ①神の計画(救い) = 信仰のみ
       ②ユダヤ主義者 = 信仰 + 律法(行い)

 以上をまとめると:

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「信仰+律法(行い)」を信じた人は救われているのか?

 旧約時代から一貫して、人の救いは「恵みによって、信仰を通じて」もたらされます。ここではリビングバイブル名誉回復のため、分かりやすい訳として掲載しておきます。ここでも、救いは行いによるのではありませんと念押しされています。救いは100%、神側からの恵みのアプローチによるもので、救いに関して人間側から貢献できるものは何一つないということです。ゆえに人は誇ることができません。

 聖書的に見て「信仰+律法」を信じた人は救われているのでしょうか? 人が救われているか否かは、神にしか分かりません。人間の立場で可能な限りチェックする方法は二つ考えられます。①先ず「信仰+律法」は、厳密に云うと福音ではないので、この場合救われていません。もう一つのケースはガラテアの信者たちのように、②最初は福音を信じて救われ、後々ユダヤ信者の口車に乗せられて、律法を付け加えた「福音でないもの」を伝え始めた人の場合です。彼らは救われてはいるものの、その後の信者人生では成長もなく、何ら有益な実をもたらさないことは容易に理解できます。どちらも悲惨ですが、②はまだマシ。少なくとも救われてはいますから。悔い改めれる余地が残されています。悲惨なのは前者①のケースで、本人は救われていると思っているのに、実際は最初から救われていなかったという …… これは悲惨です。

【新改訳2017】この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
【リビングバイブル】あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。 救いは、私たちの良い行いに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。
【NASB1995】For by grace you have been saved through faith; and that not of yourselves, it is the gift of God; not as a result of works, so that no one may boast.

エペ 2:8-9

 聖書によると、人は、①(神による)恵みのゆえ"by grace"、②(人間側の)信仰によって"through faith"、救われます。日本語の前置詞「~ゆえに」「~によって」はニュアンスが似ているので分かりにくいのですが、英語ではしっかり区別されています。①by:働きを受ける(受動的)、仕組みを利用する。②through:主語が行動して物事を進める(能動的)。人は神の恵みによって(受動的)、信仰を通じて(能動的)、救われるという意味。「救い」とは神が一方的に準備され、人間に提供されたので「恵み」以外の何物でもなく、それを受け取る手法は「(福音を信じる)信仰」のみということになります。特に②では「信仰と行い(律法の順守)」と書かれていないことに注目してください。恵みを受け取る方法は「信仰」だけで、ここに「律法(行い)」の居場所はありません。

 パウロの時代、付け足された律法(行い)の一つが「割礼を受けること」でした。これが現代では他の行いに置き換えられ、ありとあらゆる律法が登場します。2000年に渡る教会時代を経て、パウロ時代の枠組み(モーセの律法)を超え、ユダヤ教のみならず、キリスト教独自の律法も加えられてきました。枚挙にいとまがないというのはこのことで、律法を救いの条件に加えている教団・教会は数えきれません。救いの条件として加えられる律法を少しばかり挙げてみましょう。もはや整理することさえ困難です。

救いの条件として加えられてきた律法の例:
秘蹟:読みは「ひせき」。主にカトリック教会。サクラメントとも呼ばれるもので、聖体、洗礼、堅信、品級、婚姻、告解、終油の七つ。これを受ける(実施する)ことなしにはカトリック教会員として認められない。
洗礼:カトリックにもプロテスタントにもこれを条件とする宗派がある。
告解・罪の告白:秘蹟の記述と重複するが、プロテスタントにもこれを条件とするものがある。
異言を話す:主にプロテスタント・カリスマ派。聖霊を受けた証として聖書に書かれた異言が話せることを救いの条件とする。
弟子であること:筆者が以前通ったことのある教会。洗礼、伝道、教会に通うこと、祈りなど弟子としての行いが条件。
十戒:主にプロテスタント。十戒のうち、安息日の規定以外の律法は現代でも有効と考える。一方、セブンスデーアドベンチスト教団では一週間の7日目である安息日を日曜日の聖日とし、厳守すべきと考える。
※参考:モーセの律法は今日も有効?:現代でもモーセの律法が有効であるなら、613個ある律法をすべて順守する必要がある。ヤコブの手紙2章10節にはこう記されている。「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです」律法は「ユニット」なので、一つでも順守できなければ、すべての律法に違反したこととなる。つまり、その人はモーセの律法を守らなければ救いに到達できない。

 ここで一度、自分の救いに関して、チェックを入れてみましょう。自分は聖書が提示している福音を信じただろうか? 純粋に福音を信じる信仰だけで救われているだろうか? そもそも通った教会は「福音」を正しく伝えていたのだろうか? 「福音とは何?」と聞かれて、しっかり答えられるでしょうか? 信じた時、「福音」に他に何か足されていなかったでしょうか? 今の時代、割礼を受ける人はさすがにいないでしょう。でも「洗礼」はいかがでしょうか? 罪の告白は? 伝道は? 弟子にならないと救われない?「異言を話せないと真に救われたことにならない」と言われたことはないでしょうか?

「救いの確信」はどこから来るの?

 ちょっと自信なくなってきた??? でも大丈夫。今気づいたなら、むしろラッキー! 今日が貴方の転換点になるかもしれません。

 黙示録によると、現代の教会時代を特徴づけているのは、ラオデキアの教会だと言います。この教会は冷たくもなく、熱くもない生ぬるい教会なので、神は口からあなたを吐き出すと云われます。さらにこの教会に限って、イエスは戸の外に立ってたたいていると。皮肉なことに、教会でありながらイエスは外に追い出されている画が見えるでしょうか。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタ11:28)」と云われるイエスがいないのだから、教会の中には苦役のために疲れ果てた"信者"で溢れかえります。自然な流れで、自らの救いに関して不安な所謂”信者”が教会内に蔓延します。多くは感情を押し殺し、我慢して教会に留まります。が、教会内の人間関係等に耐えきれない人たちは教会から逃げ出して、"教会難民"となります。

 何故そうなるか、少し理解できる気がしませんか。彼らは、福音を教えられることもなく、一生かけて何らかの律法を守らなければ、自分の救いを完成できないと考えているとするなら……どんな教会に育っていくでしょう? 自らの救いの完成ばかりが気になって、周囲のことに目が行かない、自分勝手で自分本位な”信者”の集まりです。文字通り、愛を唱えながら愛のない集会が出来上がります。他者のことや救いに召された人たちのニーズに応えられない集団ばかりが、表向きは”教会”という看板を掲げて……イエスが口からあなたを吐き出すと云われるのも理解できそうです。

「救いの確信」はどこから来る?

 では信者の間でよく交わされる言葉「救いの確信」って、どこから来るのでしょう? 自分の頑張り、律法の順守から来るんでしょうか? だとするなら、貴方の内に救いの確信は一生かけても芽生えてこないはず。考えてみてください。アダムはたった一つの律法さえ守ることができなかった。それでも自分だけは、複数ある律法を一つ残らず守り、信仰者としての一生を全うできるでしょうか? 時が経って成長すれば、いつか立派になれるのでしょうか? 残念ながら、人は歳をとればとるほど、体力と共に気力が失せていき、記憶力さえもが奪われていきます。

 元来、救いの確信は自分の内側には無いんです。「聖書にそう書いてあるから」「神がそう言ってくださっているから」というのが救いの確信です。人は聖書に記された内容を100%信頼することで自分の救いを確信します。もし貴方が、聖書の勧め、あるいは使徒たちの勧めに従って、福音の内容を受け取ったのなら、貴方の救いは100%確実です。これが嘘ならそれは、神の存在自体に関わる問題で「聖書の神は嘘をつく神」となってしまいます。確かにこの種の「信頼」にはある意味、手放す感があります。「救いの確信」とは元来、自分の内側にガッツリ握っていたいものだからかもしれません。ところが、その確信は自分の内側を探しても見つかりません。自分の外にあるんです。救いの確信……探す場所を間違えてはいないでしょうか?

 確かに誰かが一人で瞑想したり黙想したりしていると一見、なんだか深遠でミステリアスには見えますね。よう分からんけど深いこと言いそう的な。でも、それだけです。

黙想すれば「救いの確信」は増すのか???

信仰の起源

 福音を信じることで救われる信仰は、神が人間が生まれる、ずっと以前から準備されていたものです(エペ1:4)。神は時間を超越された方なので、過去から未来までを見通せる方です。神は人間が造られる前から、人間が堕落することもご存じでした。堕落した人間を救う方法として、神が選択されたのが「信仰を通じた(through faith)」救いの手法で、その創始者がイエスであることも記されています(へブ12:2a)。

 この信仰による救いというのは、神の専権事項であって、被造物は誰も手を触れることができません。誰が救われたか、誰が救われていないか、神にしか分からないということ。人はうわべを見るが、主は心を見る(Iサム17:6c)からです。実際、自分が救われているか否か、本人でさえ分かりません。信者でさえ、自分は本当に救われているのか心配になることがあります。洗礼を受けていれば、体験的に救われたことを思い出すことは可能でしょう。それでも尚、自分の救いについて確証が持てないのは何故でしょう? 神父や牧師でさえ、確実には分からないのです。

 だからこそ「信仰による救い」は「行いによる救い」より遥かに優れた方法だと言えます。エペソの手紙にあるように、このおかげで人は互いに誇ることができません。教会に多額の献金をすれば他者に誇ることはできるでしょう。でも、それは救いの証明にはなり得ません。

 この優れた救いの手法に、被造物に過ぎない人間が後付けで条件を付け足すとは、なんと厚顔無恥なことか。神が準備された、オリジナルで完全無欠な「信仰による救い」に、罪にまみれた人間の都合で「行いによる救い」を加えることは、神の恵みにケチをつけるような行為です。

 いつか神と対面した時「神様も頑張ってくれたけど、僕たち人間も救いを得られるよう頑張る」とでも言うつもりでしょうか? それともイエスを目の前に「イエス様、十字架でのご苦労はよく知ってます。でも、あなたの御業では少し足りなかったので、救いが完全になるよう私も頑張りますね」とでも言うのでしょうか? 「信仰」に「行い」を付け加える行為が、十字架だけでなく、世界の始まりから脈々と積み重ねられてきた神の御業全体の否定につながることがお分かりになるでしょうか? パウロがブチ切れるのも当然でしょう? あなたも「アナテマ!」と叫びたくなったはず。

 信者であれば「恵みから落ちる」という表現を何度か耳にしたことがあるでしょう。誤解が多い表現でもあります。そんな自堕落な生活をしていると恵みから落ちるよ的な文脈で使われることが多いと思うですが、意味するところは正反対。こういう言葉を発する人は最初から救われていないか、自らを”立派な信仰者”と考える偽信者か、いずれかだと思われます。だから次にそういう人を見つけたら、真の信者の皆さんは「( ゚Д゚)ハァ?」とブチ切れるか、少なくとも100mほどダッシュして距離を確保しましょう。彼らの中では、イエスの犠牲は自分の救いを完成させるための通過点の一つに過ぎず、彼らのように一所懸命、義の行いに励む人はかえって、恵みから落ちてしまうから。キリストから離れ、キリストを見失う、憐れな人たちだから。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

ガラ5:4
恵みから落ちないように

福音に何を加えたのか?

 ここまでほかの福音について触れてきたので、この流れの中で「カルト」にも触れておきたいと思います。カルト教会の定義や特長、見分け方やその影響については、既に多くの牧師や偉い先生が詳細な調査を元に何冊も本を出版されているので、今回はそこには触れず、別の切り口でお届けしたいと思います。

 これまで、キリスト教系のカルト教会に通う人たち、過去に通っていた人たち、団体から距離を置いている人たちには「失礼に当たるかもしれないんだけど…」と前置きして、救いの確認、つまり福音を信じているか否かを確認してきました(例:下記リンク先等)。折角聖書に触れて、洗礼まで受けたのに、最初から救われておらず、後で「私は○○したじゃないですか」と訴える、マタイ7章23節の哀れな人たちみたいになってもらいたくないから。

 しかし最近、果たしてこれでよいのか?と疑問に思うようになりました。何故か? それは、福音を信じていることが確認できても、結局、元いたカルト教会に戻ってしまうからです。自分がいた教団を「カルト」と理解しても、また舞い戻ってしまう。それが現実です。物理的に戻ってはいけないと分かっていても、その環境でなければ生きられない身体になってしまっているのでしょう。それほど洗脳の力は強いとも云えます。

 だからむしろ、会話の中であぶり出すべきは、その教会/教団は「福音に何を足しているのか?」という点ではないかと。

 前述のとおり、その人が救われているか否かは人の目には分かりません。それを知っているのは、神だけです。神は人の心を見られる方で、被造物である人間にはそれができません。もちろん、上記の教会に通っている人の中にも、福音を信じて救われている人は"確実に"います。人間ができる最大限のことは精々「福音とは何か」「何が福音ではないか」を聖書から分かりやすいよう示すことくらいではないでしょうか。また本人がそれを理解したとしても、物理的にカルト的な教えから離れられるかは、また別の問題。それ以降は、神と本人との会話の中でどうすべきか決めてもらえばよいかと。

 かつてカルトに属していた人に対して重要なのは「救いの確認」ではない気がします。カルトでもキリスト教系である場合は大抵、福音の内容については「同意している」場合がほとんどです。だから確認をしても直ぐに元の生活、カルト教会に戻ってしまう。福音の内容確認は、あくまで二次的なポジションに留めておき、確認すべきは「付け足し部分」なのではないでしょうか。パウロ先生もそうしておられる。良い例が今回取り上げたガラテア書です。

 ガラテア教会の場合、付け足した内容は「割礼を受けること」でした。パウロがこれを明らかにしたことにより、何が福音で、何が福音ではないかを明らかにしました。「救い」への付けたし要素として考えられるものには、上記のとおり。秘蹟を受けること、異言を話すこと、弟子になること、神と直接話ができる、洗礼、日曜礼拝の厳守、罪の告白、十戒の厳守、自称”再臨のメシア”を信じる、等々。

 例えば、多くの教会では、福音を信じた者に対して、信仰告白をさせたり、洗礼を授けたりします。それ自体は悪いことではないし、推奨されるべきことですが、それらを「救いの条件」とする教理を打ち立ててしまうと、ユダヤ主義者たちと同じ穴に落ち込んでしまいます。もっと単刀直入に言えば、そうした教理を立ててしまった集団は、どれほどの歴史・権威があろうとも「アナテマ!」の対象となるという意味です。

あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

ピリ 3:2

 以上のとおり、「福音を信じる信仰」に付け足す事柄は「行い」、つまり「律法」です。一部のキリスト教を含む宗教はすべて「行い」を重視し、神はそれを嫌悪されていました。

21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタ 7:21-23

『主よ、主よ』と言う者の言い分を聞いてみてください。「預言した」「悪霊を追い出した」「奇跡を行った」……すべてが「行い」です。これに対して、神は言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』全く知らないというのは、そもそも彼らは最初から救われていなかったことを指しています。さらに不法を行う者たちと云われます。旧約の時代からずっと神は、こうした偽善的行い、儀式的な行いを嫌われていました。それは今も変わりません。

13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集 ── わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。

イザ1:13-14
立派な佇まいのサンピエトロ寺院

ほかの福音を信じてしまった人はどうすればいい?

 では、神が用意してくださったのではないほかの福音を信じてしまった人はどうなるのでしょう? 彼らに救いの道は残されていないのでしょうか?

 イエスの十字架は、すべての罪を赦す神の業です。その中には、ほかの福音を信じたこと、知らなかったとはいえほかの福音を伝えたこと、アナテマとみなすべき教えに関わったすべての罪が含まれるはずです。だから、告白して悔い改め、今後一切、彼らの働きに加担しないこと*で、すべての不義からきよめてくださいます
※参考:彼らの働きに加担しないこと*:信仰の顕れとしての行動。後日、洗礼に関する記事の中で詳細を記そうと思います。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

Iヨハ 1:9

 最後に、何故この記事を書くに至ったか?に触れておきたいと思います。理由は時が迫っているから。その感覚は終末論を学ぶことナシには生まれてこないかもしれません。未信者はもちろん、終末論に触れたことのない信者は、今周囲で何が起こっているかについて無邪気で無頓着なので、私たちのように騒ぎ立てている輩を見ると軽蔑の対象にしか映らないはず。

 かつての知り合いには、最早会えない可能性が高いです。かつて聖書を信じていたにもかかわらず、今は遠く離れてしまった人たち、イエスに背を向けてしまった人たち、携挙後この文書を読んでいる人たち、何故多くの人が消えてしまったか分からないで答えを求めて右往左往する人たちに届けばと願いながら書いています。実際、このNoteの記事もいつまで掲載可能か分かりません。意外に早く消えてしまうかもしれません。

 終末預言については、信じて直ぐに学ぶことが必要と思いますが、体験主義ほかの福音に阻まれると、聖書の言葉が分からなくなり、成長が止まります。テサロニケの手紙を読むと、パウロは信じた直後の信者に、終末論をガッツリ教えていた様です。旧約聖書に散りばめられた終末預言の数々をユダヤ的に解釈して、黙示録に当てはめる作業ができないと"終末のしるし"をまったく理解できないまま信仰生活を送ることになります。折角、聖書が近くにあるのに本当にもったいないと思う。

世界統一宗教 One World Religion への懸念

 聖書には今後、世界統一宗教 One World Religion が登場するという預言があります。これは大患難時代前半の3年半、世界規模の繁栄を見ます。彼らは真の信者たち(携挙後に信者となった人たち)を殺し、3年半の後、反キリストによって滅ぼされます。

1b「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。 2 地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」 3 それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。私は、一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神を冒瀆する名で満ちていて、七つの頭と十本の角を持っていた。 4 その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。 5 その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。 6 私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

黙示 17:1b-6

 聖書中、が象徴的に用いられる場合、「国家」「民族」「組織」等の意味で用いられます(同12章ではイスラエル民族を象徴するが登場)。ここに登場するは富と贅沢に耽り、欺きと淫行に満ち溢れた大淫婦として描かれます。この世界統一宗教は、既にその片鱗を見せており、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビに「アブラハム・ファミリー・ハウス」が2023年2月16日に開幕式を済ませ、開発が進められている。

 フランシス法王は言います。「すべての男女は、いかなる状況にあっても救われることができる。たとえキリスト教徒でなくても、この精神の救済行為に応えることはできる。生まれながらに罪深い存在であるというだけで、救済の対象にならない人物は誰もいない」つまり「神を信じなくても、すべての人は救われる」というものです。これを神学では「万人救済論」と呼んでいます。ところが聖書では正反対のことが記されています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ヨハ 14:6

53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」 54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。 55 あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。 56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」 57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」 58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 ヨハ 8:53-59

『わたしはある』という表現は、モーセが燃える柴の中に神と出会った際、神が神であることを示すために用いられた表現で、自分は神であるという神性宣言でもあるため、冒涜罪の罪であると即座に悟ったユダヤ人指導者たちは石打ちの刑に処すため石を取ったのです。

「終末論」を学びたい人には、以下の資料をお勧めします。今からでも決して遅くないはず。

1.英語読める人は:
The Footsteps of the Messiah: - Revised 2020 Edition 
by Dr. Arnold Fruchtenbaum

2.日本語で聞きたい人は:
メッセージステーション 
話し手:中川健一「ヨハネの黙示録」

 2の内容は1をベースに語られています。内容は1の本の方が濃く、特にメシア再臨の様子、メシア再臨後の世界、所謂"千年王国"の描写が圧巻です! おすすめ!

 それでは、ほかの福音から足を洗われた皆さん、天で会いましょう!

参考:
英語イメージリンク:by と through の違い | 英語イメージリンク (english-speaking.jp)

引用:
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会



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